小宮山剛

2020年9月3日1 分

僕はブレードランナーにアンドロイドの姿を見るのか?

映画としてのガジェットへの手の込み方や近未来都市造形への思い入れは、1973年の『ソイレントグリーン』や近頃の『クラウド・アトラス』を思い起こさせる。アンドロイドとの対決や、悪役として描かれるロイが秘める「人間らしさ」も良い。

が、フィリップ・K・ディック『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』にふれた者は、マーサ―教の存在やデッカードが抱く「自分は人間なのか?」という疑念、そして被創造物としての動物の貴重さ・・・などといった重要なファクターが映画のうちに存在しないことを嘆き悲しむかもしれない。

もちろん『ブレードランナー』は映画としてとても優れているのだろうし、SF映画の金字塔としての価値や立場が揺るがされることはないだろう。そして僕はこの映画を中学生ぶりくらいに再観したし、よりよく分析してみるべきなのだろう。

それにしても、である。

それにしても、上記に述べたファクター群はあまりに重要ではなかったか。それは『ブレードランナー2049』で回収されて然るべきである!

・・・もし1982年に僕が生きていたら、そんなことを当時から主張し続けていたのかもしれない。

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