小宮山剛

2019年4月20日7 分

夢番地~『君の名は。』によせて~

最終更新: 2019年4月23日

 ぼくにとっての夢を誰かが叶えていて、こうしてただ平々凡々と過ごしているぼくが、知らずのうちに誰かの夢を叶えている。こういうことを考えるとき、ぼくたちは「夢」といううつつを抜かした言葉を使いながらにして、極めてリアリスティックな問題について追求しなければならない。夢という媒体を通して他者との交際が起きるというのなら、それは時空か土地か、あるいは両方の桎梏を超越した、肌と肌との擦れあいを意味するのだから。

 ひとつの質問をしてみる。「君の名は。」

 と、同時にぼくは応えようとする。「ぼくの名は。」

 問いと応えとは、重なり合うことなく落葉となる。

 ぼくはぼくとして、ひとつの疑問を自分自身に抱くことになる。

 「どっかでお会いしたことありますか」

 映画『君の名は。』を日本で数多くの人がみている。ハマっている。かなりの数の人が、複数回劇場へ足をはこんだのではないだろうか。それぞれが魅力を胸に響かせたのだろうが『秒速5センチメートル』との反駁を抱えるもよし、RADWIMPSの音楽場面をひたすらに反趨するもよし、美少女の描写を描きつつ「明日いれかわりが起こりますように」と真夜中の眠りにつくもよし、である。一言でいえばこの映画は、万人受けしている。おおいにビジネスとして成功している。

 さてビジネスが人を動かすとすれば、だいたいが破壊と堕落と戦争とが関の山である。そうなるに決まっている。この世に感動を呼ぶビジネスなど無いのだし、資本の投下と搾取とを繰り返す「あくなき辺境の追求」はもう成立しない。この世の中のフロンティアは、探険という意味でも経済という意味でも消滅してしまった。しかしここが『君の名は。』のポイントである。ぼくたちは消えてしまった何かをあの映画のなかに見出だして、恍惚と夢のなかにとりこまれてしまったのだ。連続するアニメーションは雄弁に人生の交錯という和音を奏でているようにみえて、その大局的な部分において、ぼくたちをより深い深い夢へと誘ってしまった。

 先に話したとおり人間は世界のありとあらゆるものを目に焼き付けて、インディアンもマオリ族もマリオも怖くなくなった。しまいには宇宙である。地球にゴミを撒き散らすだけでは飽き足らず、その外にまでデブリを生みつづける。限りなく貪欲で、ありえないほどか弱い。そんな我々人類だ。

 そんな我々人類なのだが、どんな辺境を押し下げても超えられない「境」がある。現在ではもはや恐れられなくなった、といってしまってもいいくらい特別に論じ立てられることはないのだが、それは古来の哲学者も現代の医学者も、インチキ心理学者であろうと誰であろうと「これ」と言い当てられない、いかにも不気味で、誰も凌駕の美味を味わったことが無いシロモノである。

 「この先はあの世」

 あのおばあちゃんの一言。さらに『君の名は。』ではこれでもかというほどに「かたわれどき」や、ほかならぬ主題である夢と夢との入れ替わりといった「境」の揺れ動きが繰り返される。加えて、それを冒頭からたいした説明も無しに始めてしまうのだから恐ろしい。複雑怪奇な現象を、それも「時」という最も強大な謎をおもちゃにしたかのようにストーリーを進めてしまう荒業は『ドクラマグラ』『百年の孤独』といった魔法を思わせる。この点で『君の名は。』はぼくたちの憧れを獲得している。飄々とクールな顔で、タイムマシンも使わずに時空を旅してしまったのだ。

 それはもうこれ以上に帯びきれないほどのロマンティシズムを映画のなかに溢れ出させた。ぼくは、あの「電話が繋がらなかった」場面で、仮に電話が繋がってしまってもよかったと思う。時代が違うのだから各キャリアや電波事情にお詳しい方々からすればそれは「不適切」なことだろうが、今日の彼氏との電話で「同じ日の同じ時間に」相手も電話を手に取っているという保障はどこから生ずるのだろうか。ぼくはそんなことでは安心できない。電話の向こうの声を聞きながら相手のマンションを訪れてみれば、そこには廃墟が横たわっていてもいいと思う。ぼくたちは時空の堅実性を無遠慮に信じきっていて、この映画はそんな安心を簡単に打ち壊してくれる。

 「境」の話からだいぶずれてしまったのだけれど、人はいつだって「向こう側」に憧れつづけていた。アメリカ大陸、ヴィンランド、あの世、彼岸、妖精の国、西の国。ケルト神話であろうが『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』であろうが、ぼくたちの憧れはいつだってこの世にはない。そうした創作物のなかでもっとも受け手が目を輝かせるのは、この世のぼくたちには届かない「隠れ世」に、自らを投影した主人公が足を踏み入れる瞬間である。もしその主人公をある程度自由に操れるとしたらどうだろうか。だから『ゼルダの伝説』は売れに売れた。どんな時代でもどんな場所でも「向こう側」への憧れは形をかえて存在する。それを『君の名は。』は、見事に一作品として蹴飛ばしてくれるのだ。

 ではこの映画において「境」はどのような形で超えられるのだろうか。映画『マジックアワー』でそうだったように、昼と夜との世界の変わり目も上手な舞台装置として用いられていた。こうして人生と人生とが交錯する瞬間が、魔術的に創造された。しかしもっとぼくを唸らせたのは、その前段としての「時の超えかた」である。『時をかける少女』のように未来装置を使ったか。いや、『君の名は。』では究めて原始的に呪術的に「唾液を米と混濁させて醗酵させる酒」という仕組みを用意してくれている。これにはたいそう興奮した。もちろん飲みたい。飲みたいのだが、それ以上にこの「身体の一部(唾液)を捧げる」という行為は、あるいは「神々しいものを身体に取り入れる」という行為は、古来より秘密裏に(もちろん、現代的都会人の私たちからみて)しかしながら着実に受け継がれてきた呪術的アニミズムをはっきりと体現している。しかも巫女のくち噛み酒である。最高である。

 『1Q84』で天吾と青豆は「二つの月」「猫の国」といった仕掛けを取り込んで交錯する。それもまた映像化されるとしたら美しい描写が待っているだろう。そして本作品では彗星である。絵としてももちろん映えるのだが、美しくも命を掠めた宇宙的規模の猛威のなかで、散っていった数々の、時と場所を超えた叫びが、アニマが聞こえてくるような高鳴りが感じられる。高校生と高校生の入れ替わりという接点をスマホの日記というディジタルワールドでつなぎ止めつつ、大団円を彩る仕掛けとしての彗星が大宇宙から飛来し、一村落という閉鎖的小宇宙を攻撃する様を克明に想像させる方法だ。落胆する観客にもたらされる(いくぶん予定調和的であるにせよ)緊迫の連続と救済の可能性、そして静謐に静謐に収束をむかえ、今までの不調和などどうでもよくなるような幸福の予感、そしてこれから着々と歩まれるであろう平和な未来。どの世代のどの性別がみても満足するように、あくまで構造はクラシカルに築かれた、現代的でありながら時代超克的な仕掛けを満載した作品なのである。

 これまで述べ立てたことをまとめさせてもらうならば『君の名は。』は一つには「向こう側」への憧れであり、一つには「舞台装置」のうまさである。夢(理念と言っていい)と手段とが両立する作品だからこそ、ここまで支持されているのだろう。

 もう一ついえば、糸守の形もよかったと思う。円形の湖、『おおかみこどもの雨と雪』ほどに「祖谷」の要素は無いにせよ、閉鎖的でその場所がそれ自体として充足した土地。それはロケーションとしても時空上の地点としても、円形のなかで巡り巡り同調的な回転を繰り返すことの象徴である。それは心地好い場でありながら、息苦しさと隣り合わせである。親切でありながら、停滞した関係性をただただ続けていかなければならないという不安がある。この円形は、どのような大きさでも存在しうる。なぜひとつの国が存続する時の長さには限界があるのだろうか。この円のなかでぐるぐる回転することに疲れ、ひしがれ、円の外にはなにものかの希望があるのではないかと夢みるからである。完全な円をはい出ようと夢をみるものは、消失させられる。

 しかし大団円において彗星がこの円環的な不安をぶち破る。象徴的に輪が途切れたその様は、新しい命を生み出す果実が破けるように、卵が必ず割れるように、崩壊と産出を訴えていた。それを美しいと眺める者がいる。論ずる者がいる。飲み込まれて消えるものがいる。その衝撃が生んだ「歪み」によって、出会う者がいる。たち消え、また結ぶ。おそらくはこの主人公たちのほかにも幾らもの人たちが尋ねあったことだろう・・・「君の名は」。明日は、慣れ親しんだ人に対してこう問いかけてみたほうがいいかもしれない。「僕は、いったいどこにいるのだろうか」と電話を握りしめて狼狽する。こんなことが起きたっていいと思うし、この世のシステムはそこまで堅実ではないだろうし。

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