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  • 執筆者の写真小宮山剛

青森と太宰治とスキー直滑降

更新日:2021年2月2日

 東北新幹線の車窓を見やれば、ガラス窓の向こうには積もりきった雪が無表情にたたずんでいる。車内の私は額の汗を左手の人差し指で拭い、数日前青森に行く支度の一環として買い込んだ、厚手のジャケットを脱いだ。雪はあくまで無表情で、凶器にも夢にも変貌しうる曖昧さを含んだままで、山形を覆いつくしていた。新青森を出てからどのくらい経ったのだろうか。私の同行者達は通路を隔て、さらに一段後ろになった席に並んで座り、旅の疲れにどっぷりと浸っている。同行者であるのに、駅員の手違いによりこうした会話のままならない席組になってしまった。とはいえ、隣同士に座っていたからといって東京駅に着くまでの間喋り続けたかどうかと言われれば、長旅の疲れを思うとそれは怪しい。私も少し微睡むつもりが、どうやらかなり深く寝入っていたようだった。口の中に、悪い夢をみた後独特の奇怪な粘り気が残っていた。そういう考えをもってみると、システムのエラーや人の手違いなども「あらかじめそのように決定されていた、都合のいいことに」と納得できることが多い。誰しもが私のように恵まれているわけではないということを、決して忘れてはならない。


 私の隣に座っている女性は八戸から乗り込んで来たのだが、山形についてもなお遠藤周作の分厚い作品を読み込んでいた。九州出身である私は、この女性がその本を覗かせてパッキングしてある大荷物と共に窓際の席にどかりと座り込むやいなや妙な親近感を感じて「お荷物が多いようですが、網棚にお載せしましょうか?」と尋ねてみた。すると彼女は矢庭に怪訝な顔をして'Ah, no, no thanks...' と答える。私はまた、いらぬことをしてしまったと思い自らの文庫本に目を落とした。隣の崇高な遠藤周作に比して、私は新潮文庫の『津軽』を読んでいる。きっといつの時代にも太宰を読む人間は、幽かな、しかし底の知れない恥ずかしさを感じていたのだろう。そして唇の動きだけでこう唱えるのだ。「私の・・・私のただ一人の理解者。私はあの人の、ただ一人の理解者・・・かみさま」。


 青森では親愛なる土井夫妻が迎えてくれて、彼の高校時代の友人二人と向かった私ともども、熱い歓待を受けた。土井氏は煌びやかなまでの青森弁で我々をののしり、鼓舞し、そして青森の魅力へと誘因した。「じゃわめぐ」というのは青森でいう漲りの言葉であるそうで、一同おおいにじゃわめぎながら青森の街を闊歩したものだった。温泉に入るとき、酒を飲むとき、スマブラをするとき、みな一様にじゃわめいでいた。果てには雪壁(車が通れるように押しのけられた雪の壁)に頭を突っ込む者まで現れて、手のつけようのない乱れ騒ぎであった。とまあ後の述懐の凡例として話が先に飛んでしまったが、これでは『冬物語』よろしく時の力に頼りすぎて話のリアリティが一切損なわれてしまうことになるので、人間らしく順番に事を追っていきたい。私はまだ、人間であるのだから。


 東京を発した東北新幹線が新青森駅に滑り込んだのは、昼を少し回った頃であったと思う。土井家のホスピタリティに全幅の信頼を置く我々は、身を任せるままに「のっけ丼」の聖地にたどり着いた。その名は知らぬが、美味い魚を食券をちぎって買う場所だった。ひと千切りひと千切りが、命を奪われた魚との契りとなり、自らの丼を満たしていく。これを10回くらい繰り返してのっけ丼が完成するが、いたく美味かった。これならいくら魚が死んでもかまわないと思うくらいに美味かった。


 八甲田丸では土地の風俗や連絡船の歴史をみることができた。太宰の『津軽』など読んだところで、だいたい主人公が酒を飲んで足を止めてばかりいるので歴史のことなど一切わからなかったが、これは良かった。展示してあるショートホープをみて、久々に煙草を飲みたいと思ったのも、良かった。その後はワラッセというねぶたの展示館に寄ってみたが、坂上田村麻呂とねぶたの歴史なんぞ教えてくれる展示でなかなか勉強になる。しかし私はそれ以上に、ねぶたが風俗を乱すとして禁止されていたこと。また、ねぶたの士達はそれに反して祭りを実行しとおしたことに感銘を受けた。なかなか血のある祭だ。博多山笠なんぞに見慣れるとその他の地域の祭りはいかにも貧相でお上品でちっぽけなものに見えたりするが、ねぶたからはどうして気骨ある、死をもいとわぬ勢いを感じた。私もその勢いを借りて、どれ一発今日は勢いづいてみようかしらん、などと思ったものだ。


 青森市内から八甲田山までは意外と近かった。今日はスキーやスノォボォドなるものをするというので、その方面に車を走らせた。雪道の運転は慣れていないと危ないから、と運転を受け合ってくれた土井氏であったが、後部座席では絶大なる酒宴が催されていたことを彼は未だ知らない。なんやかんやありまして温泉に着いて、ざばぁっと風呂はいってリアルゴールド飲みました。湯煙で見通すことができず大変に残念だったのだけれど、混浴でした


 スキーをしたことがあるのは、高校生の時代に修学旅行の実習で得た経験のみである。そのときはたしか二日間の研修めいたことをやって、志賀高原に磔にされたかのような特訓を受けた。なかには涙を流しながら直滑降を実習させられる者もいるエリート教育で、私はスキーには自信があった。話を転じてスノォボォドとなると私は一切口を閉じてしまうが、酒の席と雪上ではよく滑ると評判の私である。さあ酒をもってこい!亀吉だ!亀吉だ!なに立山だ?えぇい、片っ端からもってこい!そこのアードベッグも、生のまま飲み干すぞ俺は・・・


 初級斜面を滑るとき、青森市内の夜景だろうか、美しい景色を一望することができた。100万ドルだとかなんだとか仰々しいことは言わないが、それはとても充足した一望であった。斜面の途中で私は一人静止し「ここに女がいたらいいのに」と呟いた。それはあくまでも両義的な意味合いを含んでいたが、生への欲望と死への欲望との中立が、私にそんなことを言わせたのだった。私は雪上のなだらかな斜面でただひたすらに夜景を眺め、何かを待っていた。頭上を眺め続けるヤツメウナギのように、ただひっそりと待っていた。私はこうして、女のいない男になったのだ。


 皆初級面にも飽きてきたので、中級コースへと向かうことにした。私は連れられる身、ただ風に吹かれるがごとくついていきます・・・。中級面にたどり着くとそこはまるで断崖絶壁のようにも見えたが、いかんせん私はスキーが上手い。そして私は26歳である。スポーツマンであれば最も脂がのった26歳。173センチ/75キロ。恵まれた体格に健全な四肢。私になしえないものは無い。なしえないどころか、これは中級者向けコースである。そして、私にはねぶたの御加護がある。心が、じゃわめいできた


 皆は、先に出てしまった。皆一様にずるずると、ゆったりと降りているようだった。その先彼らがどうなったかは、下り坂の陰になって全く見えない。早く、追いつかないといけない。いつの間にか一人取り残された焦りから、私は初級面と同じような勢いで飛び出した。スキー板は下り坂斜面と、真っすぐ平行に向けられていた


 まず帽子が飛び、手袋が飛び、スキー板は両足ともはじけ飛んだ。スキー板は金具が粉砕され、綺麗にねじ曲がっていた。これらは後から、斜面の下のほうから観察して分かったことなのだが、わたしは中級コースの半分近くを、顔面で滑り落ちていったらしい。直滑降の体制で大きめの雪片に躓いて、あとは全く見えなかった。感覚としては両手両足が無くなり、素敵な浮遊感のなか高梨沙羅ちゃんよろしく飛び立ってしまったかと思った。しかしながら生きていた。人間とはなかなか死なないものだ。


 折れたスキー板を持ってクラブハウスまで下山する際は、あくまでクールに、極めてタフに見えるような顔で降りて行った。小栗旬、真田広之、小学校のときの山崎君、ストラドレイターにぶん殴られたあとのホールデン、そしてまだ目覚めていない、真の俺自身。思いつくかぎりのタフな男たちを自分自身に取り込んで、涙をこらえて歩いた。最後のほうになると恥ずかしくて走り出し、そして転んだ。青森の雪山でただ一人、誰も滑ってこないコースの真ん中で、そこにその日初めての足跡を刻みながら、転んだ。私を誰か見てくれていますか。誰か、ここまで読んでくれましたかいいねじゃなくて「かなしいね」してくださいね。多少の雪が散り始め、くぐもった空から小馬鹿にしたような音が響いていた。けらけらと笑う雪たちはそれでも、私に寄り添ってくれたのだった。


 「笑われて、笑われて、強くなる」

 「人非人だっていいじゃないの」

 「恥ずかしい人生を送ってきました」

 「姉さん。だめだ。先にいくよ」

 ぼくはこうして、幾度も幾度も失敗を重ねてきた。「私」なんぞと語る口はとても使えないほど、残酷なまでに人生の道を踏み外してきた。芥川や堀や、そして何より三島の文学は、耐えられない。読めば読むほどに叱責されるような、居心地の悪い気がしてくる。ぼくが一緒にいられるようなアイドルは、太宰その人なんだ。きっとあの人ならば、酒を飲みながら、ぼくより駄目なことをわざとやって見せてくれたりして、死ぬことなど怖くないと思わせてくれる。どうか左記のことばを字義どおりに捉えないでほしい。そんな馬鹿なことはしないでほしい。死を恐れないことは、生きる覚悟だ。畏れに畏れ、ちらりと見てみたいという願望があるから、人は自殺などしてしまうのだ。例に漏れず太宰はその一人なのだが、お茶目な人だ。


 「正岡子規三十六、尾崎紅葉三十七、斎藤緑雨三十六、国木田独歩三十八、長塚節三十七、芥川龍之介三十六、嘉村磯多三十七」

 「それは、何の事なの?」

 「あいつらの死んだとしさ。」

 私は26歳で、今年27歳になる。まだまだ生きられる。まだまだ、罪を蓄えられる。生きれば生きるほどに分厚くなる黒鉄の桎梏 ー 美しいいたずらに。


 翌日五能線に乗ってトロッコ列車を体験しながら、太宰もまた青森市内から金木へ向かった旅をしていたことを思った。彼は故郷に帰っていたが、ぼくはいったいどこへ向かうというのだろう。前日の美酒がほのかに鼻をつき、思考が回らなかった。ぼくが太宰と同じ路線で、同じ目的地へ向かうということの意味を、わかったような気もするし、よくわからなかったような気もする。それでも列車は走り続け、後部窓からは残された雪が延々と続いていた。それは輝く神々が行き去った後の道のように、細々とした残光のきらめきを感じさせた。ぼくはただ目を細めて、後へ後へと流れゆく景色に自らを同化させていた。


小宮山剛

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