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  • 執筆者の写真小宮山剛

LA LA LAND

更新日:2019年4月23日

 号泣する空の余韻も心地よい4月のはじめ、世界を震撼させたという映画『LA LA LAND』を観賞した。一度は触れようとしたものの逃してしまった一体があるものの、6体のオスカーを手に入れた作品が私の胸を打ち震わさないはずがない。静岡の映画館は、4月1日の喧騒―それは静岡まつりとも重なって―に包まれていた。チケットを早めに購入した後時間を殺すために一度映画館の外に出ると、心地よい余韻が嘘であったかのように、雨が再度降り始めた。Rain Drop is Falling on My Head


 映画の出来はやはり上等だった。アメリカ映画らしい、主人公の高い志とその成功。シリアスな笑いを横溢させる愉快な仲間たち。そして・・・ふと僕は映画の最中、自分が今年で27歳になることに思い当たる。27歳。そこまで自分が生きているなどとは、想像したことのない年齢だった。大方それまでに、僕は消えてしまうように安らかな死を迎えているものだと信じていた。27歳。責任とある程度の自立心に胸をはずませ、安定した幸せに陶酔する世代だ。


 なぜ僕は映画の最中、そんなことを思い出して、しかも映画の大部分が頭に入ってこないような事態になってしまったのだろうか。唯一覚えているのは、ジェームズ・ディーンが主役を務めた『理由なき反抗』(Rebel without a Cause)を、セブとミアが観に行くと約束して、さらには当日までをひどく楽しみにしながら過ごしている一連の場面だった。僕はもし自分にもそういう女性がいたら素敵だろうなと思う。それは大きな屋敷の中で探しに探した結果みつけた煙草に、やっとのことで火をつけて一口目を吸うくらいには素敵だと思う。


 これまで僕は、38人もの女性に、一緒に『理由なき反抗』を観ないかと誘ってみた。返ってくる答えは様々なのだが、結論をひとまとめにするならば答えは「ノー」だった。「それは本当に実在する映画なの?」「ジェームズ・ディーン。綺麗なブランド品のような名前ね」といった、婉曲的な断り文句もあれば、一緒にベッドの中で観始めた瞬間(精確には’That way!’と連呼される場面)に寝始める豪胆な子もいた。いずれにせよ彼女たちの記憶にジェームズ・ディーンの名もプレイトーの名も残ることはなかった。彼女達とは、いずれの子とも、その映画について思い返しながら話すことはなかったし、おそらくは僕の名すらも覚えられていないことだと思う。


 だからこそ『LA LA LAND』のミアとセブは素敵な二人だと思った。それだけでこの映画は、僕にとって大切な作品になった。主人公の志、滑稽かつ洗練された行動様式。しかし何かが足りない。アメリカンドリームは隆盛を迎えたのちに、救いようのない崩壊を迎えなければならないはずなのだが『LA LA LAND』は哀愁漂う部分こそあれど、概ね「人生はそんなものだよ。全てを求めちゃいけないよ」という言葉で片づけられてしまうような終局を迎える。もちろん、これが世界中を震撼させると同時に安心させ、大人気を呼んだのだろう。しかしながらそこに身を震わせるような心地よさはなかった。


 『理由なき反抗』『ジャイアンツ』そして『華麗なるギャツビー』 いずれも救いようのない崩壊と悲劇をはらんでおり、しかもその前提として『LA LA LAND』にもみられる、アメリカン・ドリームの達成とユーモアが多分に含まれている。人々はこうした映画をみて、劇場内で救いようの無い不安に囚われることになる。しかしながら夕飯の買い物をすませて帰宅して、ユニクロのくすんだスウェットに身を包んでビールを飲みながらげっぷをする旦那をみて「あぁ、私は銃弾の無い拳銃を手にしていただけなのに撃ち殺されてしまう少年でもないし、心への圧力に耐えきれず、愛する女性への心すら失いアメリカ中の恥となるような泥酔演説をぶちまける石油王でもないし、プールで浮き輪の上で撃ち殺され、延々と鮮血の輪を描き続ける謎多き大富豪でもない。この豚のような夫と知能指数の低い息子をもって、我幸福なり」と思うのだ。この浮遊感にも似た優越と恍惚。これこそが古典的アメリカンドリームの崩壊(他人の)を目にした後の幸福感である。


 実際のところ、24歳の年の全てを、僕は猛スピードで目を閉じたまま、ありとあらゆる交差点に自ら運転する車を突っ込ませることに費やした。しかしながら残念なことに、夢の終焉は訪れなかった。ディーンの存在は遠く、遠く、僕は彼の歳を追い越してしまうはめになった。ジョーダンが言うように、僕は対向車に恵まれていたのだ。『LA LA LAND』を観ながら僕が自分の年齢を思い返したのは、その映画には(幸福なことに)内包されざる要素としての「救いようの無い悲劇」を自ら醸成してしまったのだと思う。24歳で死ぬこともなく、何者かになることもなく、僕は2017年の夏を迎えることになるだろう。この救いようの無い悲劇が実のところ平静な幸福であったと、僕は一体誰と出会うことで確かめればよいのだろうか。


 『LA LA LAND』を隣で見ていた女性に僕は告白する。


「今年僕は27歳になる」


彼女は退屈そうに答える「私は28歳になる。1年の数的差異があるにせよ、その漸進的な営みは滞りなくこれからも繰り返される」


「これからも繰り返される?」


「そう。たとえ私とあなたがこれから二度と会うことが無いとしても、私とあなたは1年の縮まることのない差を保ったまま、歳を重ねていくことになる。これは私の知るかぎり、ルール・ブックが無いにもかかわらず不可侵であり、かつ誰しもがそれに対して愛しさを抱いている唯一の規律だと思う」


「そうやって言葉にしてみると、とても素敵なことに聞こえる。君の名は?」


「名前のようなものは無いの。私は諸君の思いを、いえ、歴史と認識の大記憶とを集約した存在といえるから」


イェイツみたいなことを言う人だと僕は思う。そうして彼女の目をみているうちに、僕は気を失っていいた。気づけば自分の部屋でこの文章を書いており、事実に即した報告文を紡いでいた。僕はたしかに、自分の部屋にいると思う。そして僕はたしかに27歳になる手前であり、それは幸福な規律の円環的構造の一部であるのだ。

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