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  • 執筆者の写真小宮山剛

きっと、くいとめられない:『私をくいとめて』観賞記

※下記の記事は小宮山剛のnote記事を複製したものです※


「かくいう僕は、もはや林遣都さんの姿を、その演技を見るためだけに椅子を温めていた」


やっとのことで観れたというのに、観賞後記までの間があいてしまった。しようしようと思うことを先延ばしにしていく性格のせいで、僕はもう30歳になったというのに未だこうしてnoteに書きつけるくらいしか自己表現の場を知らない。それが良いことか悪いことか、と言われればもしかするとこうしてnoteを書くというのは「良い」ことに部類されるのかもしれないけれど、問題は、そのほかの手段をとりえないということである。


小さなパソコンの画面上に自らが意図したように表示される文字の羅列を眺め、それが「本当に」自らの意図なのかどうかという確信もないままにその文章の出来や名前も知らない誰かから与えられる評価に一喜一憂するばかりが今の僕のすべてになってしまっている。その偏狭な在り方が問題なのだ。


のっけから剣呑な重苦しい言葉のならびであるが、実のところ、僕が『私をくいとめて』を鑑賞しながら感じたのもまたそんな気持ちだった。


JR九州の宮崎駅に新規オープンしたアミュプラザ。宮崎県ではここでしか『私をくいとめて』を上映していなかった。もちろん僕が住む椎葉村では上映していない(今は映画館がない。昔はあったそうだ)ので、僕は車で片道3時間かけて宮崎市まで下って行った。映画を観るためにその上映時間以上の時間をかけて映画館へ向かうというのは、どこかあべこべで情緒深い行為だと思う。


映画が始まるまでのあいだ、いかに映画館の換気能力が優れていて、三密のうち「密閉」という文字と映画館の環境がどれほどにかけ離れているかの宣伝があった。そういうのを見せられると逆に不安な気持ちになるものだけれど、僕をふくめ3組しか観賞者がいない館内では立ち上がって歩き回り一緒にゴスペルでもしない限り感染することはないだろうと思った。なんといっても『私をくいとめて』は宮崎県においてさえ2020年の12月に上映されたのだから、もう2か月も前に県内封切された映画ということになる。しかも僕が入ったのは最終時間帯ということで、人などいようはずがないのだ。


僕の後方には、付き合っているのかいないのかわからないようなリクルートスーツらしい格好の二人組の男女が座していた。話し声が聞こえない(なんと言ってもここは映画館なのだ)のだけれど、どうやら仕事帰りか何かにラブコメ映画としての『私をくいとめて』を観に来たらしい。もう一組は中年(と見受けられたけれど、暗い館内ではよく見えなかった。もしかすると女子高生だったかもしれないし、100歳を超えたおばあさんだったかもしれない)の女性が一人座っていて、意思の強そうな目つきでスクリーンをにらみつけていた。


かくいう僕は、もはや林遣都さんの姿を、その演技を見るためだけに椅子を温めていた。そこに僕が座っていたのは、同い年で同じ身長の俳優さんが「神演」を見せてくれるのを拝むためであった。そして『私をくいとめて』をご覧になった方々はご存じのことかと思うけれど、この予想は良くも悪くも打ち消される。


・・・


※以降、多少のネタバレ要素も含みます※


「あれは彼女の実生活においてどれほどの頻度で訪れるのだろうかと考えると、とても息苦しい」


そしてもう一つ僕を裏切ってくれたのは『私をくいとめて』がもつシリアスな熱の量だった。僕はちょっとミステリアスなおひとり様女子と平々凡々とした営業マン男子のラブコメディ・・・というくらいのものを期待して「じゃあそんな平々凡々さを林遣都さんがどんな風に演じてくれるんだい?」と胸膨らませていたわけだ。劇中歌に『君は天然色』が採用されていて「古き良きラブストーリー」を思い起こさせる点なんかは、かつて観た『陽だまりの彼女』にそっくりだとにおわせるところがあった。まぁ、ビーチ・ボーイズの”Wouldn't It Be Nice”は1966年、大瀧詠一のほうは1981年と発表された時代がすこし違うのだけれど。


ともかく、僕はまず『私をくいとめて』のシリアス路線に面食らった。主人公(みつ子=のんさん)とその脳内ヴォイスである「A」との会話なんかがコメディらしく描かれていたり、多田くん(林遣都さん)とのぎくしゃくしたやりとりが微笑ましくおもしろかったりはするのだけれど、みつ子が過去に職場や恋愛(とも呼べないような悲しい出来事)での経験から引きずり続けているあらゆるものへの不信めいた泥濘のような感情は、いくら笑い飛ばそうとしても笑い飛ばしきれないほどに固く心の根っこにこびりついているものなのだろうと思う。


とくに多田くんとの恋愛が本題となっているだけに、みつ子が男性に対して抱いている不信感は、世の男性全員が自らの手に胸を当てなければならないほどに、深く色濃い。この短い映画の間に複数回訪れた、みつ子の過去が発作的に去来する慟哭。あれは彼女の実生活においてどれほどの頻度で訪れるのだろうかと考えると、とても息苦しい。


また皐月(橋本愛さん)との一見良好に見える関係性に時折差し入れられる影が、また一層僕を不安にさせる。とくにイタリアへ皐月の元を訪れて最初に彼女の大きくなったお腹を目にしたときのみつ子の目は「なぜ」だとか「私のことをなんだと思っているの」とか、そういった感情がないまぜになって生まれた複雑を通り越した混濁。そんなものになんとか色付けをして絵にかいたような攻撃性を帯びていた。イタリア滞在中に二人は涙を含む仲直りの儀を共有するのだけれど、仮にあそこですべてが丸く収まったのだとするならば、それはそれで却ってその他の関係(つまり、多田くんとの)により大きな悪影響を及ぼしそうで恐ろしい。


「『私をくいとめて』という叫びへの答えは『きっと、くいとめられない』」


ここまで語ればお分かりになるだろうが、僕は『私をくいとめて』全体を通してのんさんの演技に首ったけだった。いつもなら林遣都さんの演技に見惚れ、激情を動かされ、感心の極みを称賛の言葉に変えざるをえないのだけれど、今回の林遣都さんはまさに平々凡々を演じきっていたのだと思う(後述するのだけれど、それでもやはりキラッと光る常人ならざるシーンがあった)。


僕は映画全体を通してのんさんの独白に聞き入り、Aに話しかける表情に見入り、空白を絵にかいたような表情の奥底にある空漠とした虚無感に誘い込まれた。まるで映画が終わると同時に自分自身がかかえている不安がすべて暴かれてしまうという時限装置を抱えているかのような焦りにも似た緊迫感が、彼女の演技からあふれていた。彼女の目をみれば目をそらしたくなり、彼女の仕草のどれもが僕に「何か間違ったことをしているのではないか」と思わせた。僕が映画のあいだ終始息苦しかったのは、コロナ禍のため着用を義務付けられているマスクのせいだけではなかったはずだ。


それでも、多くの方はおそらく「最後はハッピーエンドだった」と拍手したくなるだろう。最後多田くんとみつ子は、幸せな旅行に出かけようとするのだ。それは新たな可能性であり、今後の明るい未来を示唆する雰囲気にあふれた大団円であった。


しかし僕が思うに、ラスト近辺には他の新しい可能性としての「暗い未来の可能性」が散りばめられていた。それこそが僕が感じたこの映画の「最終結論」であり、その不穏さこそが僕の観賞後感として今も残り続けている。言うまでもなくそれこそがこの映画の価値だと僕は思うし「みつ子と多田くん、付き合えてよかったね」というだけでは終わらない物語を伝えることができる俳優陣の力なのだ。


そのひとつは多田くんの内奥にある怒りの暗示であり、もうひとつはみつ子からこびりついて離れない自己嫌悪であった。ここで便宜上「自己嫌悪」という言葉をもちだしたのだけれど、それは自らを責めなければならないような気もするし、一方で私は悪くないと突っぱねたい気もするしという心の狭間で起こる葛藤が末の憎まれるべき産物である。


多田くんの内奥にある怒りは、雪降るさなかホテルに向かう中二人がレンタカーの前部席に並んでいる際に垣間見られた。レンタカーを返す時間が遅れているということでイラつく多田くんにみつ子が謝ると「なんでみつ子が謝るの」(呼び方を正しく記憶していない・・・。みつ子ちゃん?)と取り付く島もない。


「時間に遅れて焦っているんだよ。仕方ないじゃん」と思われる方が多いかもしれないけれど、こういう事態にどのような態度を表すかこそが、恋人(あるいは「人間」)としての資質なのだと思う。ここでイラつかずに「大丈夫」という声をかけられない狭隘さは、僕に二人の将来に投げかけられた不安の影を想像させるに十分だった。


もう一つの「みつ子の自己嫌悪」にも上記の場面がかかわってくる。映画も大団円に近い場面、旅行に出かける前にみつ子は鍵をなくしてしまう。それを無い無いと探しながら、彼女は「多田くんに愛想をつかされちゃう」(これもまた正しいセリフとして記憶していない。なにせ映画のラストも近いということで頭の整理をしながら観てしまっていたのだ)ということにまず思い至る。何よりも最初にそう思い至るのだ。


レンタカーのなかで悪くもないのに謝るみつ子。旅行の飛行機に遅刻しそうなときまず「愛想をつかされちゃう」と不安を感じるみつ子。双方に深く根差すのは、過去から未来へと重みを増し続けるみつ子の自己への、そしてあるいは周辺へも向けられる嫌悪と忌避の念ではないだろうか。僕は最後まで、彼女が心の底から笑い切った一日を目にしたことがないように思う。みつ子は映画の最初から最後まで、笑顔の底には不安を張り付け、きらきらと輝く黒目の内奥には闇をもっていた。


「それは考えすぎですよ」というのは簡単かもしれない。「簡単かもしれない」と言いながら、実はちょっと救われたりもする。というのもレンタカーでのイライラなんかとくに、僕にもありがちなことである。イライラする理由なんてないのに、そうしたってどうしようもないのに、つい口や態度に出してしまう。もう「あるよね~多田くん。あるよね~」である。もし僕が指摘した多田くんの態度が「ありえること、許されること」であれば、多少なりとも僕も救われる気がする。


また僕がここまでの不安をラブコメディたる『私をくいとめて』から感じたのは、主演ののんさんと林遣都さんという二人の名優が出会ってしまったことで起きた複雑怪奇な芸の妙なる空気が原因である。それはまったくドグラ・マグラ的で、ふつうの物語がふつうの物語に見えないほどに、視線の奥底や表情の裏側から問いかけてくるメッセージの多い演技がスクリーンからはみ出し続けていた。


その結果僕が答える「私をくいとめて」という叫びへの答えは「きっと、くいとめられない」である。彼女の不安はより一層増しに増し、彼のイライラもつのるばかりなのではないかと恐れている。密室のエントロピー変化のように、フラストレーションが高まりゆき最終的には・・・。


・・・


そんなわけで、次はより深く激情にあふれた林遣都さんを観たい。そんな気持ちを強くした『私をくいとめて』観賞であった。そうした意味では今度の『フェードル』オンライン公開はとても楽しみで、椎葉村にいながら彼の雄姿を拝めることに心からの感激を覚えている。


さぁ、新たな物語を彼とともに感じよう。


・・・

椎葉村図書館「ぶん文Bun」に築いた林遣都さん推し棚。しっかりと綿矢りささんの『私をくいとめて』も格納済み。姉恋やフェードルのドラマ、舞台グッズも入ってくるのだろうか・・・?


ちなみに写真集『Clear』と『THREE TALES』はばっちりディスプレイ済み。


今後の映画『護られなかった者たちへ』、『恋する寄生虫』、そして『犬部!』も楽しみです!

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