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上野彰義隊、東日本大震災、コロナ。

  • 執筆者の写真: 小宮山剛
    小宮山剛
  • 2021年5月15日
  • 読了時間: 4分

「<福澤先生ウェーランド経済書講述記念日>制定。慶應4年のこの日、福澤が彰義隊の戦いをよそにウェーランド経済書の講義をつづけた故事をしのび、毎年この日に記念講演または行事を行うこととす」

上野彰義隊の戦いで江戸が混乱の真っただ中にあるなかで「芝居も寄席も見世物も料理茶屋もみな休んでしまって、八百八町は真の闇(やみ)、何が何やらわからないほど」であったという。そんななか、ちょうど築地鉄砲洲から芝新銭座へと本拠を移した、また時の年号をとり正式に慶應義塾という名をつけたばかりの義塾では、福澤諭吉がいつもと変わらず土曜日の日課であるウェーランド経済書(Francis Wayland: The elements of political economy,1866)の講義を続けたのだそうだ。はからずも、2021年5月15日も土曜日である。


この話を母校の創立者福澤諭吉の伝記『福翁自伝』で読んだときはあまり思うところが無かったが、いざ自分の身にも同じような事態が起こると感慨を深めざるをえなかった。その事態とは、東日本大震災である。


2011年3月11日、慶應義塾の2年生だった私が住んでいた川崎市幸区のアパートは、アマゾンから送られてくる小ぶりの段ボールをめちゃくちゃに振り回したみたいに揺れた。天井から吊り下げた洒落たシーリング・ライトが横向きではなく縦に飛び跳ね、それが頭に落ちて来ては大変だと思い部屋のロフトから身を乗り出し一生懸命にライトを抑えていた。揺れはじめる前の地響きが脳に刻まれ、何度も続く余震のたびに本震の恐怖が蘇る。千葉のコンビナートは爆発し、東北を津波が襲い、福島では原発が何やら未曽有の事態になっている。上野彰義隊どころの騒ぎではない。多分。


しかし、義塾は通常通りの授業を継続した。幾日かの混乱期はたしかにあったが、電力の逼迫が懸念されるなかで様々な制限がありつつも、通常どおりの講義が行われ通常どおりに学生たちが教室に集った。


「通常通り」という響きにどこか息苦しさや空恐ろしさを感じつつも…、つまり、果たして東京でのうのうと過ごしている僕たちは東北で被災した方々の苦しみをよそに授業なんて受けていていいのだろうか、と思いつつも、日常を継続できることのありがたみと周辺の人々と変わらず語らえることに大きな安堵をおぼえたものだった。そして、そんな事態だからこそ学びを止めてはいけないという気概があった。


2021年の現在は、世界的な苦境である。黒死病やスペイン風邪の頃と医療のレベルも違うというのにここまで疫病が蔓延するとは、誰もが思わなかったのではないだろうか。


コロナ禍で、学生たちは集うことができないと聞いている。徐々に対面授業への回帰が進んでいるとも報道などで目にするが、リモートでの学びばかりでは果たして慶應義塾に入った意味があるのだろうかと思ってしまう学生さんもいるのではないだろうか。


文学部生として日吉、三田の空気を味わいながら塾生時代の4年間を過ごした私としては、そしてすべての塾員がそう思っているのだろうが、慶應義塾のキャンパスの空気自体が特別なものなのだ。リモートでの学びは有用だし感染対策には有効だとは思うが、そのために失われた青春の代替は効かないだろう。


僕はこの文章で「福澤諭吉に倣い義塾での対面授業を復活させよ」と言いたいのではない。ただただ、上野彰義隊も東日本大震災も上回るほどの苦境にため息をつき、為す術のなさに歯がゆさを募らせるばかりなのである。


3年前に東京を離れ秘境・椎葉村に暮らす身としては、あの頃の東京時代があったからこそ今があるという意識をもちつつも、この時代に都会で暮らすということの意義にも疑いの目を向けざるを得ない。キャンパスにも通えないのに、会社でも集まれないのに、帰りがけの一杯も味わえないのに、都会に住む価値がどれほどあるのだろうか。


本棚の『福翁自伝』は何も教えてくれない。あるのは、受動的な教唆ではなく自発的な独学のみなのだ。

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