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  • 執筆者の写真小宮山剛

平成31年4月30日 図書館記念日

更新日:2020年4月30日

今日という日、日本はまさに「平成最後の一日」でもちきりなわけです。そこで小宮山もそういう話題に一言付さなければならないとは思う。


とは思う、のですが、今日はそれ以上に大切な(!?)記念日であるのです。


皆さんご存知のとおり(!? 2回目)4月30日は「図書館記念日」です。これはもう、図書館司書勉強中の身としては外すべからざる一日であるわけで、日本の歴史が変わろうと何しようと、僕は何としてもこの話題で一記事書きたいわけです。


 

「図書館記念日」って? (日本図書館協会ホームページから抜粋)

昭和25年4月30日、画期的な文化立法である図書館法が公布され、それを契機として日本の図書館活動は新しく生まれ変わりました。サービスとしての公共図書館の機能が明らかにされ、無料原則がうちたてられ、わが国は、真の意味での近代的な公共図書館の時代をむかえたのです。日本図書館協会は、今日の図書館発展の基盤となった図書館法公布の日を記念して、4月30日を「図書館記念日」とすることにいたしました。
戦前の記念日(4月2日―帝国図書館長が天皇に図書館についての御進講をした日)との決別も意図しています。


 

さらに、5月1日から31日までは図書館振興の月に制定されています。


遊びに出かけまくるゴールデンウィークにはもう疲れたでしょう!ねぇ、そうでしょう!!運転したくないでしょう満員電車疲れたでしょう!!!正直に言ってごらんよ!!!


この記事を読んで、現実の逃避先として図書館に行くのもよいのではないでしょうか。まぁ、人気図書館はいずれも混み合っているかもしれませんが。。。



 

と、言うわけで(どういうわけで!?)、今日は小宮山が思う凄い図書館をご紹介します。全国各地にある図書館ですが、そのコンセプトや規模、そして人々からの愛され方はさまざま・・・。僕個人がいいなぁ、と思う場所を紹介いたします。


ちなみに、とくに順番は関係ありません。敢えて月並みなことばで済ませるとすれば、それは人それぞれが決めるべきことなのですから。


■まちとしょテラソ(長野県・小布施町)

長野県・小布施町にある町立図書館である「まちとしょテラソ」。僕が大好きなのはその名前の由来です。


「まちの図書館」+「まちあわせの場所」+「小布施から世界を照らそう」


だから「まちとしょテラソ」なんだそうな。図書館で待ち合わせ、って素敵ですよね。


僕もそんな青春を送りたい平成だった・・・。あぁ、こんなことを言いだしてはもう平静ではいられない・・・。



まちとしょテラソ外観。まちを照らしてますね

内観も美しい!ただ居続けたい。

■学びの杜ののいちカレード(石川県・野々市市)

韓国・ソウル市にあるピョルマダン図書館の本棚が話題になっていますが、学びの杜ののいちカレードの書架(正確には開放型の書庫だとか)もすごい。1階から2階天井まで届く書架はまさにブックタワー。見ているだけでわくわくしませんか?しますよね?


小宮山なら「これ全部は読めない」と悲嘆する。

「カレード」は万華鏡(kaleidoscope)のこと。積みあがる本たちとそこに集う人々をみていると、ほんとうに光の乱舞を眺めているみたいで・・・。


■山中湖情報創造館(山梨県・山中湖村)

関東近郊にお住まいの方なら、とくに小宮山みたいに大学のテニサー(ちゃらくないよ)に所属していたという方なら一度は行ったことがあるであろう山中湖。


その湖畔に「山中湖情報創造館」という図書館が佇んでいるというのです。「湖畔の図書館」というだけでもう行ってみたいですよね。次回のテニス合宿に、ぜひ図書館めぐりを加えてみては?


・・・いえ、やっぱり別の日に、清廉潔白なこころと共に行ってくださいw



湖畔の図書館感たっぷりな出で立ち。

内観も、さすが別荘地山中湖という感じ。

・・・そしてこの山中湖情報創造館、見た目というよりはその取り組みがすごいのです。


たとえばペッパー君を配置して案内役にしてみたり、山中湖キネマという映写会の取り組みがあったり、フェスあり、ボードゲーム大会あり・・・!


それはまさに「なに館でしたっけ?」という感じ。「人が集まる場のためなら何でもやろう」との気概すら感じさせます。


実際のところ、山中湖村の人口は5200人程度。観光客や別荘滞在者が多い山中湖だからこそこういう交流の場が必要になっているという節はあるでしょう。ただしこの「行けばなにかやってる感」って、どんな規模の図書館でもわくわくさせてくれるところがあるように思います!



 

今日は平成最後の日を楽しみたいので(疲れた)この辺で・・・。


3つだけ図書館を挙げてみましたが、実のところ「図書館が『図書館』であり続ける限り」図書館が真の意味で居心地よくみんなに愛される場所になることは難しいと思っています。


公共のものであるからには、それは自治体に住まう人に開かれていなければなりません。それと同時に、自治体の外からくる人にも開かれていなければなりません。


僕はそういう姿を具現化している場所を思い浮かべようとするとき、やはり「本屋ってすごいなぁ」と思うんです。


毎日のように入替る書籍・雑誌が整頓されていて、企画棚がぐんぐんピックアップされる。P. T. バーナムの言葉を借りるならば「来るたびに発見がある」わけだ。そこには目当ての本を念頭において、あとは買うだけという人もいる。息子へのプレゼント本について書店員に訊きたいという人もいる。14時半の待ち合わせのために20分だけ暇をつぶそうという人もいる。雨宿りをする人もいる。


そういう全ての人々がひとつの場所にいる光景をみると、その度に胸が躍るのだ。それは神保町であれ新宿であれ、根津であれどこであれ同じだ。僕には京都の古本屋をめぐった経験がないけれど、この本をひとたびでも愛してしまった者に共通する魂のうねりのような何かは、きっと日本のどこでも、世界の隅々まで、同じなのではないだろうか。


本屋ってすごい!


↑↑↑えぇぇぇぇぇぇぇ???図書館記念日なのに?図書館の事例挙げたのに?


まぁ、僕はこんな人間ですよ。


とまぁ冗談はさておき、もし仮に僕が図書館のような場所づくりに携わるとするならば、それは限りなく本屋的な図書館でなければならないと思うのです。


本屋には店主の哲学がある。

図書館には、その図書館のフィロソフィーがなくてはならない。


本屋にはその顔としての店主がいる(だいたい怖そう)。

図書館には、その顔としての優秀な司書(やさしくおすすめ本を紹介してくれる、30歳後半のできればグラマラスなおねぇs・・・)がいる。


そこに行けば新しい発見がなくてならない。


「調べよう」と既に考えついたことは、過去の情報の宝庫であるインターネットで調べればいい。


司書(やさしくてグラマラス)の役目はきっと「調べよう」を呼び起こすことにあるんだと思う。


「インターネットが過去の集積であるとするならば、読書は未来への有機的連鎖である」


未来への有機的連鎖を引き起こすトリガー。

それが司書(やさs・・・)なのだ。


もし僕が司書になるのであれば、やさしくてグラマラスになりたいと思う。


・・・おい真面目な話だぞ・・・


もし僕が司書になるのであれば、利用者の未来に向けたレファレンスをしたいと思う。


平成最後の日に、こんなことを思うのでした。


 

・・・平成2年生まれの小宮山は、平成の31年間で28年とだいたい9か月を過ごしました。29歳になるとき、時代は令和になっているのでしょう。(でしょう?)


「平成2年」に生まれた僕が30歳をむかえるのは「令和2年」。僕は30歳という年齢に自分が達するということがうまく想像できないのだけれど、そのモデルケースとして描いている場面はある。


僕はきっとその年齢を、あらゆる意味においてフラットで無感情に迎えるのだと予想している。これから何か劇的な変化が僕のもとに訪れないかぎり、この予想はかわることがない。


それはどんな場面か・・・?

この平成最後の記事は、僕が30歳を迎えるにあたり「参考」にしている場面を二つ引用して終わりたい。そうして、たぶん、僕の予想が覆されることを願いたい。


来たれ、劇的な変化!


 'Go on. He won't annoy you. I think he realizes that his presumptuous little flirtation is over.'
 They were gone, without a word, snapped out, made accidental, isolated, like ghosts, even from our pity.
 After a moment Tom got up and began wrapping the unopened bottle of whisky in the towel.
 'Want any of this stuff? Jordan? ... Nick?'
 I didn't answer.
 'Nick?' He asked again.
 'What?'
 'Want any?'
 'No... I just remembered that today's my birthday.'
 I was thirty. Before me stretched the potentous, menacing road of a new decade.

The Great Gatsby, F. Scott Fitzgerald


(拙訳)

 「行けったら。ギャツビー氏はもう君を困らせることはなかろうよ。もう彼は、思い込みが過ぎた馬鹿な色恋沙汰は終わってしまったということをよく判っているだろうからね」

デイジーとギャツビーは去った。言葉もなく、弾かれて消えたかのように。彼らは思いもよらぬ孤独に追いやられ、その去りゆく姿は生きたものとは思えなかった。彼らは僕たちが憐れむこともできない場所へと去ってしまったのだ。

その出来事がすぎるとトムは立ち上がり、未開封のウィスキー瓶をタオルでくるみはじめた。

 「一杯いかがかな?ジョーダン?・・・ニックは?」

 僕は応えなかった。

 「ニック?」彼は重ねて問うた。

 「ん?」

 「一杯どうだ?」

 「いやよそう・・・。いま思い出していたんだが、今日は僕の誕生日なんだ」

 僕はその日、三十歳を迎えた。眼前に広がる次の十年間は、不吉で恐ろしいもののように思われた。


 ある日気がついたら、僕は30歳になっていた。
 信じられなかった。
 僕は相変わらずあの2DKの家に住み、同じような仕事をしていた。「すくいぬし」以上の言葉を見つけることが出来ず、でも矢田のおばちゃんも使っていたはずの同じ言葉で、文章を発信し続けていた。誰に届いているのか、そして僕自身、誰に届けたいのかさえ分からないまま、日々はとにかく、過ぎていった。

『サラバ! 下』、西加奈子

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