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  • 執筆者の写真小宮山剛

横浜は華麗なるかな~映画『華麗なるギャツビー』によせて~

更新日:2020年5月25日

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今回の土日は、金曜日の仕事終わりから、終電近くの鈍行に飛び乗って横浜へ行っていた。存外時間の流れは速いもので、気づけば熱海を過ぎ、小田原を過ぎ、と乗り換えに必死になっているうちに戸塚を過ぎる。いつも東海道線の進みは速く、それは静岡まで、かつての大昔からずっとつながっている。駿府から江戸まで、その旅路にあった者たちも、あるいは弥次喜多も、旅というのは短いと思っただろうか。時間の捻じ曲げ方を知ったカストルプならば如何様にもできたろうが、如何せん徒歩での169キロメートルは辛かろう。いくらそれが、強がりの趣味主張による「ロング・ウォーク」であっても、である。


今回の目的は

・静岡に第一号店ができた(強調したい)マークイズのみなとみらい店をみること

・『華麗なるギャツビー』を観ること


と大枠としては二つである。奇しくもマークイズのなかに東京ガス横浜ショールームがあり大きな勉強をすることになったが、ひとまずそこについて機会じみた狂気で舌を(指を)動かすのはまたの機会にする。今日はちょっとだけ、ほんの少しだけ、次の涙粒が落ちるまでの間だけ『華麗なるギャツビー』のレビューを書きたい。多少のネタバレがあるのだが、もはやあの作品を「サスペンス」として、話の展開だとか意外な秘密についてやきもきしながら観る人はいないと思うので、その点については考慮しない。古典文学を解釈した映画について語るときの特権だろう。「そこでディズィはライターを落とすじゃない?」ってわけだ。さらに、古典を読むものにありがちな「ここが原作と違う!」とときに囁き、ときに狼狽することも、私の狙いではない。そんなもんは自己勝手な解釈を教育ママよろしく尻を叩いて走らせているだけで、幼稚な現代社会の集約にも似た行為である。僕が原作 The Great Gatsbyとの違いをあれこれ言うときは、それは何がしかの意味を今回の映画化において感じたからである。この前おきの最後に、いやしかしながら本編の先に言っておくが、僕はこの映画の解釈を好いている。


まず出だしだが、まずもって面白いのが、ニックが精神病患者になっているという事後の解釈である。ニックは原作でも主人公かつ語り手、そしてギャツビーの物語を著した人物であるが、精神を病んだという記載はなかった。だが、一連の騒動を東部で経験したニックが、当初忌み嫌い、二度と戻るつもりがなかった西部に帰ったことから考えると、そういった解釈もできよう。またそれ以上に、アルコール依存症にも陥っていた映画のニックに重なるのは、作者フィッツジェラルドである。このことは映画中のニックがいかにも「作家」らしく描かれていることとあいまって、監督が『華麗なるギャツビー』に対して文学的誠実さをもっていたと読めるわけである。


ほかにもそのことを示すのはニックとブキャナンが最初に対面する場面であり、二人のやり取りはこうである。


「ニック「色男!」(なんと言ったか聞き取れず。また原作では、ニックはブキャナンのスキャンダルについて知らなかった。)

ブキャナン「大作家!」(Shakespeare!)」


・・・この場面は原作になく、ニックのイェール大学時代の執筆経歴を一言で言い換えるための仕組みであると言え、またそれ以上にラーマン監督の「作家」志向の表れであると言える。


しかしニックがアル中であるというのはどうだろうか。それは事実如何の想像による子どもじみた議論を僕がこれからおっぱじめようというのではなく、 The Great Gatsby という作品の威信にかかわってくることである。作中の、つまり語り手として一連のギャツビー騒動を「経験した」ニックは良しとしよう。まだ東部に魅力を感じており、精神を病んでいない。しかし映画中のように、ニックが精神病を負った後に、虚ろな眼でこの作品を書いたとしたらどうだろう。 The Great Gatsby は一気に、アル中が飲んだくれた時期を思い出し思い出しに書いた、不安定な物語になりはしないか。もしそれが監督の言わんとするところであれば、これはアメリカのとある世代一つ分を覆すような挑戦である。


『華麗なるギャツビー』は、ラーマン監督の作品解釈がコンパクトにまとめられており、観るものとしては自身の作品観を改めて確認するような心持になる映画である。作品観を「確認する」というのはどういうことか。また先に僕が「この映画の解釈を好いている」と言ったのはどういうことか。つまり、監督の解釈は、この作品の大きな解釈において、そこまで特異な仕掛けはないように思えるということだ。


作品自体の概念に仕掛けるというより、パーティが予想以上に豪華、劇的であったり、車のスピードが速いこと、またアール・デコ調の文様を駆使した舞台衣装、セット、というように細部からの仕掛けが面白い。またあるいは、ニックが酒飲みで意外とファンキーであった、その挙句にアル中になったとか、ベイカーが予想以上に感情豊かで、時として目をひん剥いたり、声を荒げた、という仕掛けもある。とくに僕が独特に感じたのは、作中ほとんど「声」のことしか書かれない、つまり「声としての登場」と言ってもよいディズィが、時として以外にも太い声を出すことである。


またそれ以上に驚いたのは(映画中は名前が出ないが)ユーイング・クリプスプリンガーがアクティヴで、進んでピアノを弾いたりしていたことである。あれはもはや、別人をギャツビーという物語に登場させたとしか言いようがなかった。ベートーヴェンの末裔だとかいうでたらめについてニックが映画中で言及していたが、原作では「練習が足らない」との理由でディズィ、ギャツビーら三人の前でピアノを引くことさえ躊躇った男である。この男は一体誰だったのか(クラウド・アトラスに出てくるユーイングと間違ったんじゃなかろうか)。原作ではギャツビーの死に際して「テニスシューズ」を送ってくれ、との電話をよこした挙句葬式には「ピクニック」が理由で出られないと言い残したなんとも華麗なる人物であり、それはギャツビーのみじめさをひたすらに際立てるという大きな役割をもっていた。その登場はいかなるかと着目していた僕だが、何とも意表を突かれた次第である。

ニックの陽気さというか、アグレッシブな点は注目していい。ギャツビー邸のすぐ近くで「コニー・アイランドに行かないか」と夜中に誘われるニックだが、原作ではその名称を出したのはギャツビーである。映画では「コニー・アイランドみたい!」とギャツビーの邸宅の明るさをみて言ったのはニックであって、なんだか「reserve all judgements」している人間とは思えない。


さて、このニックの性質が明かされたのは本作品第一章であるが、そこから映画に引用された一節が問題である。


「In my younger and more vulnerable years my father gave me some advice that...」

から始まるこの小説の出だしだが、その父親の提言の「all the people in this world haven't had the advantages that you've had」の箇所が、変わっていたように思われる。「思われる」というのも、字幕が「人の良い面をみなさい」だとかいうように変わっており、面食らってしまったからである。引用された文面をスパイダーマンが読み上げるかと思っていたところが全然違う字幕が流れたので、映画の出だしから思考停止というわけである。


もちろん翻訳の怠慢というわけではないだろうし、この点にあってはフィッツジェラルド自身の手記だとか、ほかの場面での箴言が活かされたのではないだろうか。どなたかわかる方にこの引用の変更の意図を聞きたいし、そうでなければまったく、道徳性が現代にあって進歩したのだというほかない。「他の人間はお前ほど恵まれているというわけではないのだよ」という父のアドバイスが、道徳的にひっかかるのだろうか?差別という名ですべてを押し殺す「有色人種の現代」が・・・?そういえば作中黒人の登場が大変に盛んであって、あれはブキャナンがあざけっていた有色人種の未来の訪れをささやいているのか、またその真逆であるか、詳しい人がみたときには機敏に反応する箇所だと思う。


差別という点でいえば、原作ではレズであったはずのキャサリンがばりばりにニックを誘惑していて、これはどうしたことかと思った。ニックを誘惑させるという役割が必要だったのだろうか。たしかにあの乱れ騒ぎは映画の重要シーン(時代と人物を描くために)だった、かもしれない。


ここまで書いてきてなんだが、僕が一番意外だったのは、ギャツビーその人である。僕自身ずっとギャツビーはエリック・バナに演じさせるべきだと思っていたが、今回はディカプリオである。それは良しとしよう。しかしなぜ、あれほどにずんぐりした体形なのか。まるで彼がちょっと前の出演作から、黒人をびしばし叩きながらそのまま出てきたかのような鋭い眼光、結末部では原作にない場面として、ウィスキーのグラスを叩き割る、自慢話が多すぎる、口調が、興奮したときフランクにすぎる・・・と、あれこれ言いたいことはあるが、とにかく僕は「ギャツビーはもっと冷静でスマートで、人間離れしてるんじゃないの」と言いたいのだ。


しかしそれこそ、ラーマンの狙いであったかもしれない。というのは、彼が執拗に映画中で、神の子から転落したギャツビー、という像を主張していたからである。これはもちろんディズィと初めてキスした場面、原作でも最も印象的で幻想的な、天へとかかる梯子を上ろうとした場面である。しかし「reincarnation」が完成したその時点でディズィという花が開き、ギャツビーは神から肉体をもつ人間へ変身する。ここでは「再生」というより、「肉体化」という意味が大きく、その点でギャツビーはもはや神でない、という印象を強く発しているのである。その証拠に神は肉体化の完成の前一瞬のためらいをもった。そして咲くべくして咲いた花は、神の力を奪った結晶なのだった。


ギャツビー自身、ディズィと踊りながら老人に「女性の魔力に気をつけて」と言っていた。それは彼を人間に貶めた魔力であり、その日も彼の屋敷を、つまり彼が神のごとく創造した世界としての屋敷を「完璧よ」と言ってのけた魔力であった。ギャツビーの「irresistible imagination」を褒め称えていた。しかし屋敷は完全でなく、その創造にはほころびがあった。


想像とは人間の特権である。神は想像するだけで創造するので、悪巧みなどできない。それが必ず実現されてしまうのだから。ギャツビーのはもはや神ではない。彼の創造にはイマジネーション意外の何ものか、人間的な何ものかが必要であり、それは金であった。だからディズィの声は「金」なのだ。これはギャツビーが感づいていたとおりである。ディズィを手に入れるための創造に金が必要だったのであり、それはあのひとときのキスをした神の堕落がゆえであった。


ひとつ僕が思うところを、ギャツビーという物語の構造として整理させてほしい。今述べたとおり、ギャツビーはディズィにキスしたとき、神性を失った。恋の花が咲くと同時に天へと続く梯子が消え、その神性が人間ギャツビーから離れていった。ではその神性はどこへいったのか。まるで死後の魂を語るようなことではあるが、それはエックルバーグの看板に宿ったのであった。神の目エックルバーグである。


では、その目を「神様」と崇めていたのは誰だったか。他でもない人間ギャツビーを殺したウィルスンである。僕は構造として、ギャツビーはウィルスンの手によって人間としての肉体を去り、エックルバーグの神性を再び携えたのではないかと考えている。ウィルスンは、映画ほどはっきりとギャツビーがマートルをひき殺したと知らなかったのではなかろうか。それ以上の構造として彼は、失われた神を取り戻すために、人間ギャツビーを殺したのだ。キスに始まった人間は銃に終わり、そこで神が再生する。


この劇的な人間と神という関係、渡ることが不可能な境界線を渡った者、ギャツビー。それを今一度示すための、ラーマンが描いた人間味あふれる、俗なギャツビーだったと言うことはできないだろうか。「温室がまるごと運ばれた」ような部屋でディズィと再会する場面は、原作で想像したとおりの俗物だった。しかしそこから変異した後のギャツビーも、決して神々しさを放っていたわけではなく、ただの恋愛上手な人間であった。また映画にギャツビーが初めて登場するあの場面、有無を言わせぬほほえみで、相手が求めるだけの安心を与える「はず」のあの場面。背後で花火がドンパチ上がり、「にやけ」というよりほかない俗な顔だった。あれがラーマンの狙うところのもの、すなわち「人間ギャツビーの強調」でないとすれば、あの笑顔からは寸分もギャツビーの神々しさは感じられなかった。失敗である。あの登場シーンでもってして、ラーマンがギャツビーの神々しさを映画中で描くつもりがないということがはっきりしたのである。


すなわち、ラーマンは『華麗なるギャツビー』という映画で「ギャツビー」というただの人間を描いたのである。大団円においてニックが、タイプの原稿に手書きで「THE GREAT」と書き足すが、あれはつまるところ、本当は華麗でもグレートでもなんでもないのに、後付けなんだよ、という演出の表れなのかもしれない。要するにこの映画のGatsbyは「God to be」と言われるような男ではなく、ただの人間だった。それは神からの凋落を伴う恋の力を反比例的に表すという狙いの元であろう。そうでなければ、とんだお笑い映画である。





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