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  • 執筆者の写真小宮山剛

あくまでフィジカルな営み~ノーベル文学賞によせて~

更新日:2019年4月23日

 はじめはほんの軽い気持ちだった。


 今日も飲みにいこうと誘ってもらって、いつものように「へぇ」と曖昧な返事をしていた。仕事(典型的なサラリーマンの職場と思っていただきたい)が終わると同時に駆けだそうとしたのだが、ついぞ先の三連休の間通算して30分ほどしか自宅に居なかったために、部屋が大荒れに荒れていたことを思い出した。なので「今日は行けません。へぇ」と曖昧に飲み会への参加を撤回し、ぼくははやばやと帰宅の途についた。自宅までは自転車で30分ほどだ。


 早々に帰宅しなければならないのだけど、やはり腹は減るし、いつもどおりの帰り道には食べ物やがある。何度でも言いたいのだが、ほんの軽い気持ちだった。量でいえば、寿司を3巻とかそういった手頃なものが食べたかった。ちょうど入浴するときに、堀辰雄の『菜穂子』を手に取ったもののなかなか読み進めることができずに、ミッチェルの『風と共に去りぬ』を手に取るような、そんな選択をぼくは望んでいた。しかしなぜだろうか、ぼくはカツ丼や「かつや」の前に自転車を停めていた。隣のうどんやと間違えた、ということにしておきたい。


 まだ取り返しはつく。ぼくはただただルーティン・ワークをこなす人のように「カツ丼をください。梅でお願いします」と言うべきなのだ。そのことは、自分の左耳がどこらへんにあるのか直ぐに指差せるのと同じくらいに、しっかりと把握できていた。あるいは、そうした自覚をきちんともっていた。だがそういう整然とした規律概念ほど揺さぶられやすいものはなく、ぼくは「うめ」と言うべきなのか「ばい」と言うべきなのか迷ってしまう。

 ただ単体としてそのカツ丼をメニューのなかに見つけたとしたら「うめ」と注文すべきなのだろうが、すぐ横に「松、竹」と順番に並んだカツ丼の写真がにこやかに写っている。この並びが形成されることによってぼくは「松竹梅」の意味合いにおけるゲシュタルトのなかに包み込まれてしまうものの、注文としては「うめ」の一品しか頼めない、というディレンマを抱え込むことになる。この揺れ動きの中でぼくの視線は振れ幅大きくメニューをまさぐり、しまいには「期間限定チキンカツとから揚げ丼」にまでたどり着くことになる。動揺を隠しきれないままにぼくは、店員さんを呼ぶ。


「すみません、カツ丼の梅を」。ぼくは「ばい」と言った。ゲシュタルトの網からは逃れられない。


「うめを一つですね。かしこまりました」


 この一撃で十分だった。ぼくの均衡はついにセカンダリー・ウェーブをもろに全身で受け止めた。店員の名札には「加納」と書かれていた。ぼくにはそれが「狩野」にも見えたし「戸叶」にも見えた。彼は背の順に並ぶということを教え込まれたと同時に「加納くんは最前列に並ぶんだよ」と教え込まれるに等しい指導を受けたであろうと見て取れる背の小ささだった。加納くんは中学の時も、高校の時も、あるいは就職してからも、きっと一列に並ぶというときには必ず最前列に並ばなければならないと確信しているのだろう。そうしたことを考えながら、彼は今かつやでぼくと対峙し、注文を聞いている。次にこの男は、この挙動不審の男は何を言い出すのだろうか、もう2時間もメニューを崇め立てていたというのに、結局カツ丼一つしか注文しないのだろうか、と考えている。


「カツ丼のうめを一つ。以上でよろしかったでしょうか」


彼の助動詞は過去形だった。ぼくはそれを意に介さずにたたみかける。


「そしてこの期間限定のから揚げ丼を」


「おひとつで?」


「ひとつ」


「お持ち帰りですね?」


「ここで食べます」


「ここで?」


「ここで」。


 「要するにこういうことだと思うんだ」と至極優秀な学生は言った。学生は酒をたくさんあおっており、ショートにマティーニ、女の子用にロング・アイランド・アイスティー、そして中休みのヒューガルデン・ホワイトをやって、今はカティ・サークを生のままで飲み干していた。そして声にならない声を絞りだしながら「畢竟、畢竟・・・」と繰り返していた。新宿の街中で拾った女の一人は彼を哀れみ、もう一人の女は彼を侮蔑の眼差しで遠ざけていた。この眼差しと彼は結婚することになるのだが、今はただ「畢竟」と唱えつづけるだけだった。まるで神々のひとりが、悪しき人間の肉体に押し戻されてしまう悲劇の直前であるかのように・・・


 要するに、人生で思い通りに運ぶことなど何一つもないということだ。カツ丼の「ばい」を注文したいというのに「うめ」だと言われ、頼みたくもないチキンカツを食わされるはめになる。そして、その食いたくもなかったチキンカツが堂々の美味さを誇る。全く当初の想定とは異なる結果をむかえながら、ぼくは帰途につくことになる。ぼくがまだうら若く傷つきやすかったあの頃に、そうしたことは避けられないのだと、誰かが優しく教えてくれるべきだったのだ。


 もし人生がことのほかうまく運んだとしても、ぼくが明日10月13日に祝福されることはないだろう。ぼくは結婚を申し込むつもりはないし、だいたいのところ祝福されるような行為を人生のうちでひとつもやってこなかった。一つだけ。一つだけ誇りに思うことがあるとすれば、それは小学校の通学路(だいたい歩いて30分くらいの、公立小学校までの道程だった)で見つけた鯰を、命からがら助けてあげたことだった。その鯰は口に安売りの広告や釣り針やなんかを目一杯に詰め込まれ、川っぷちの道端に捨てられていた。


 広告には「あのUNIQLOが福岡に初登場!!」と書かれていた。ぼくは鯰を素手で拾い上げると、思いのほか激しく鰓が動き出したので、驚いた拍子に釣り針を自分の指にさしてしまった。そう考えると鯰はまだ元気だったのかもしれないが、とにかくぼくはそいつの口の中を洗いざらい綺麗にして、結局は川に放り投げた。水面まではだいたい100メートルくらいある高い橋の上から落としたのだけど、鯰が元気に泳いで行くのがぼくには見えた。それが小学生のぼくが取りうる最善の方法だったし、それは生臭くてしょうがない手を学校中の全員にこすりつけるはめになったとしても、決してぼくを後悔させるできごとではなかった。だからぼくは今でも、水という水は全て繋がっているのだと感覚的に覚えさせられているし、それは時代も超える繋がりなのだという確信がある。


 こういうことをしたからと言って、ぼくが明日ノーベル文学賞を、仕方なさそうな顔をして受けとるということはないだろう。2016年10月13日は、日本人で3人目の日本人受賞者が生まれるのだと思う。しかしいざその時代に共時性をもって生きていたとしても、またその作家の作品をほぼ読んでいたとしても(また、げんにそうであるのだが)迫り来る興奮があるような前夜祭ではない。いやむしろ「ついにあのサノバビッチも終わりだな」というような、今までの憎しみの大団円を迎えるような気持ちである。


 たとえばぼくが「生のなかでみつけた死への驚きと、死のなかでみつけた生への憎しみを描きたい」と願ったとしよう。もっと強くいえば、それは既に願いではなくひとつのビジョンとしてぼくのなかに巣くっているとしよう。ぼくはそれをひとつの群像劇に仕立てる。そして交錯する時系列と人間模様のなかで、主人公とヒロインが虚空をみつめながら実感するのだ。「僕等は死にながら生きている。それと同時に、生きながら死を育んでいる」。


 盤石の体制で日々アイデアを膨らませるぼくは、くらしの中のいくつもの描写を自らの作品にとりいれる。若さと体力は文章のリズムを長く、読点の少ない流麗なものにしていた。そうして日々を過ごしながら、ぼくはそのほかの作家から学ぶことも恐れなかった。読書といえばギリシア哲学のみだった時代はやめにして、ぼくはいわゆるキャノンを皮切りに、古典から気鋭作家まで幅広く、一人一人に挑戦していくような気持ちで活字をなぎ倒していった。


 「死は生の対極としてではなく、その一部として存在している。」


 ぼくはこの一文を『グレート・ギャツビー』のラスト「So we beat on, boats against the current. Born back ceaselessly into the past.」以上によく、そらんずることができる。つまり、スコッチにおけるロイヤル・サルートがそうであるように、ぼくにとって最上の一文であるということだ。それはすなわち、ぼくが最も憎らしく思う一文であるということにもなる。


 『ノルウェイの森』を読むなりぼくは、自分がカツ丼の梅にもなれないということを悟ったんだな。人はだいたい15歳くらいで自分の才覚というものを悟り、自分に相応の道を選ぶということになる。そういうことができない人間は、昇華させるべきものも持たずに荒れ野へ飛び出して「ごった煮のクズ」として放り出されるだけなんだな。ぼくがそうした自覚をもつのは、ギリシア悲劇より重要な問題があるのだと気づいたのと時を同じくして、20歳のときだった。そうして20歳というアンバランスな、大人にもこどもにも転げ落ちてしまう年齢において、ぼくは砕けることになる。ぼくは永遠のこどもとして、フィジカルな痛みから逃げつづけ、自分の才能を自らの殻の外に出すことを拒みつづけるのだ。


 今もぼくが我を忘れずに生きているというのは、21歳を迎えた絶望の最中にそれなりの慰めが訪れたからで、もう一つ言えばそれは、ほんの一言だった。その人はぼくの21歳の誕生日を「忘れていた」と言った。その一言はとてつもない効力を持っていて、ぼくがぼく自身に対して絡み付けていた年齢という桎梏を、あくまで軽やかに解いてくれた。その日は三田からみなとみらいまで歩きつづけるというしょうもないイベントを3人で敢行していた(豪雨の中)のだけど、ぼくは今でも自分を見失いそうになると、そのあくまでフィジカルな営みに自らを投ずることにしている。三島ではないのだけれど、自らの身体に走る痛みと、虫酸と、乳酸と、全てがあわさって初めて、ぼくは自分のリズムを取り戻せるように思う。そういう仕組みがいつのまにか形成されていたのだ。


 明日、村上春樹がノーベル文学賞を受賞されることだろうと思う。そしてぼくは今上述の全文を読み返して「文が汚くなったなあ」と嘆息している。文が途切れ途切れになり、まるで喀血を前にした患者のような文章だ。そこにはあくまでフィジカルな営みに裏付けられた自信が、滲み出る自信が感じられないのだ。ぼくには神宮球場で野球を観ているときに訪れる啓示もないだろうから(『職業としての小説家』をみてほしい。ぼくはそうした状況を説明することも描写することもできない、。というのも、ぼくはずっと巨人ファンだからだ)、線の細い右利き投手のように、あくまで愚直に走り込みを続けるほかないのだと思う。そうしているうちに時間と時間が重なり合って、いつの日かサナトリウムでカストルプ青年が思いついたぐらいの内容を書き付けることができるんじゃないかしら、と思える。


 ぼくたちは死を育みながら、生の浪費を惜しんでいる・・・ 先ほどの村上のことばと、直前のことばとの違いは、エレガントさにある。村上のことばは、たとえば数学者が観察しても美しいと思うだろう。彼のことばは修飾されるべきところではマン以上に雄弁であり、シンプリファイされるべきところではヘミングウェイのように簡素である。そして世界観はマルケスよりもモリソンよりも、現実に即した魔法として、しかも時代横断的に成立している。読むたびに読むたびに自分の心が狭くなっていくような作家であり、なんだかいつまでも廊下に立たされて叱責あれているような気持ちになる作品たちである。ぼくは自分の所在なさを慰めるために、太宰やサリンジャー、あるいはプラトンに帰ってしまう。ぼくにもできるんじゃないかと思う(それがいかにシンプルな恐ろしさをもっているのかには気づかずに)。あくまでサイコロジカルな慰めとして、それはそれなりに成立している。

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