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  • 執筆者の写真小宮山剛

サガンを読むのは恥ずかしいことだった

フランソワーズ・サガン。誰しもが聞いたことのある作家の名前だろう。私も大学生の頃に同級生から「サガンでも読んでみたら」と粗雑なリコメンドをいただいたことがある。もちろんその頃には一応サガンという作家の本を読んではいたが、なんとなく読む機会に恵まれず、その頃も今も『悲しみよこんにちは』しか読んだことがない。





どちらかというとサガンのその生涯を映画化した『サガン-悲しみよ こんにちは-』のほうが印象に残っているくらいで、あのセシルカット流行の発端となった『悲しみよこんにちは』にもあまりピンとこなかったような気がする。どうも僕には年下の女性といかしたおじ様の物語というものにピンとこないところがあって、自らのエディプスコンプレックスな部分を掘り返されているような気がしてしまうのだろうか、それよりも『東京タワー』(江國香織原作の)みたいな恋愛のほうが安心してみていられる。自分自身がそういう恋愛に身を投じられる年齢かというと、もうそうではないのだけれど。


でもサガンの生き方そのものにはふいに惹かれるところを感じたりしたような気がする。どんなところにかは覚えていないのだけれど、実は今も僕自身が続けていることがあって、それは、お気に入りの万年筆のインクは青色にするということだ。病床のサガンに「ほら、あなたのお気に入りの青いインクよ」だか何とか言いながら付き添いの人がペンを渡す場面があって、その場面になんだか個別的かつ雷撃的な衝動を感じて、今も万年筆のインクは青色ということにしている。もちろん、公式な書類だとか仕事のメモ書きは黒で書いちゃったりするんだけれど。


まあこんな風に、僕のサガンに関する知識や記憶は本当にあいまいだし暗いものがある。ぜんぜん印象に残っていないといっても差し支えない。残ったものは青色のインクを使う習慣と、新潮文庫の装丁に使われた鮮やかなコバルト・ブルー。ただそれだけである。


しかし時として文学の歓びは、時を経たまったく違う場面で襲いかかってくる。なんと嬉しいことだろう。僕はつい最近『無伴奏』という映画を観たのだけれど、この学生闘争時代の映画が僕に許した身震いは尋常なものでなかった。そしてその雷撃は、サガンにちょっとだけでもふれたものにしか許されないものだった。正確にいえば、1960年代の日本におけるサガンのことを本で読んで知っていなければ、僕は『無伴奏』という映画を「池松壮亮最高やわ。そして僕の永遠のエンゼル成海璃子が出演する映画はやっぱり全部ええわ」くらいにしか思わなかったかもしれない。これは非常に奇特な喜びであり、危険なことであった。




ところで最近斎藤工さんの映画に大きく打ち震えることが多い。ついさっき『去年の冬、きみと別れ』を観たばっかりなのだけれど、これはもう一度でも小説を書いた(書こうとした)人にとってはとびきりの感動が待っている映画となるでしょう。あぁ、今思えば、ここまでに挙げた映画は全部小説や小説家と関連している・・・。




その意味においても、やっぱり本はすばらしい。


さて本題である。僕は『無伴奏』のどんな場面に惹かれたのでしょうか。もちろんこの映画を観たことがある人は、そりゃあの場面でしょう、とすぐに想定できることだろうが、それは主人公とその恋人が始まりたての恋の熱に浮かれながら抱き合い「わたし、サガンが好きなの」「僕もだよ」とことばを交わす場面である。これを池松壮亮さんと成海璃子さんが演じているのであるから、もうたまらない。


もちろん大切なのは役者さんそのものだけではない。『無伴奏』が描かれた1960年代後半という時代背景と、二人が好きだと漏らした「サガン」がその頃の日本でどう受容されていたかという歴史。そこから僕は「察する」のである。


「なるほどこれは裸で抱き合っていなければ言えないや」と。


その時代のサガンとは、今の大学生の間で「サガンでも読んでみたら?」と軽くおすすめされるような存在ではなかった。原作のBonjour tristesseがパリで出版されたのは1954年。その10年後の日本においてサガンがどのように受け入れられていたか・・・。そのことを僕が読んだのは、先に挙げた装丁の美しい新潮文庫のあとがきでのことだった。小池真理子氏の手になるものだ。


「私は隠れサガンファンなの」と名文句を吐いたのは、亡き森瑤子さんである。

「サガンの洗練、サガンの虚無」小池真理子


こうした始まりで小池氏が語った「日本でのサガン観」は、まさに『無伴奏』の時代のものだった。続きがある。


 森さんからは、ちょうどひと世代下になるが、私が思春期を過ごした一九六〇年代末は、政治の季節だった。サガンの熱烈な愛読者であることを堂々と口にできる人は、意外にも少なかった。
 当時、サガンと言えば、「おんなこども」の読む作家の代表格だと思われているふしがあった。「サガン」が好きと声高に告白することは、「私は典型的なプチブルであるにもかかわらず、ブルジョワジーの懶惰な暮らしにあこがれ、気取った物言いばかりをしたがる、中身のうすっぺらな文学少女です」と認めているのと同じだと見なされた。

「サガンの洗練、サガンの虚無」小池真理子


もう、この文章があったからこそ、僕は『無伴奏』に打ち震えたのだ。文学と文学とが時代を超えて共鳴する有機的なつながりが、ここにはあった。


『無伴奏』の響子は、小池氏が書くような文学少女であるだなんてことを人に知られるくらいなら死んだほうがマシよ、という具合な女子高生だ。学生闘争にも参加するし、自ら運動を扇動するし、うすっぺらな文学少女と思われぬよう詩を手に取って、それを人前で読んでみるような人だ。


その子が「わたし、サガンが好きなの」と打ち明ける。そのことの重大さは、サガンにふれ、サガンの時代にふれ、日本での受けいれられかたを知っていなければ、すなわち新潮文庫に収録された小池真理子氏のあとがきを読んでいなければ、うかがい知れないものだった。「サガンか、そりゃ人気作家じゃないか」だなんていうふうに、聞き流してしまったかもしれない。


僕はこうした文学的有機的つながりのなかで『無伴奏』を観たからこそ、響子が渉に対してどのような思いを抱えているのかを推し量ることができた。だからこそ人は本を読まなくてはいけない。もう、毎日の感動が全然違うんだから。


たったちょっとサガンの本を読んだだけでこんなにサガンのサガン言うのは甚だ恐縮ではあるが、こんな事件があったもので紹介せずにはいられなかった。是非とも映画『無伴奏』を観るという成海璃子ファンのみなさまは、サガンとその歴史をふまえたうえで件のワンシーンを迎えていただきたい。何気ない一言を、大きなドラマにかえてしまう力が文学のつながりにはあるのだ。

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