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  • 執筆者の写真小宮山剛

房総半島横断記

2012年12月31日。


こうして日付を強調した始まりをするに足る文章というのは、日常から外れたハレの記述に限るのであって、それはそうそうあるものではない。と、すくなくとも僕は信じている。そして僕はこの日付について、空は晴れるものだと信じていた。晴れると信じていただけに、それはうってつけの日だと思ったわけだ。晴れの日には散歩が似合うのであって、この点に関して異論が挟まれる余地はないと、「散歩」の愛好者、その一人として広く胸を張りたい気持ちである。まさにそんな予感であった。その日は散歩にうってつけで、全てが新しい年のおとずれに相応しい、新しい局面の連続としての道のりになるであろうと、そんな高まりが聞こえてくる大晦日であった。


僕がロングウォークを始めたのは、大学2年生のころだったろうか、日付を記憶してはいない。24時間マラソンが感動をよぶのなら、僕も24時間歩いてみたいということから、あてどもなく歩いたのが、いや今となってはこう言いたいのだが、「歩いてしまった」のが始まりだった。


その日は麗らかな青空に包まれた地面がしっかりと乾いていて、それは僕が履いていたパンプキン色のオールスターと噛み合うのだった。東京タワーからスカイツリーへ、そして亀有や金町のほうへ向かったが、千葉へ向かうのは諦め、埼玉へ北上したのだった。千葉を諦め埼玉へ、というのは、依然として僕のどこかに千葉信仰、信条というものがあるからかもしれない。ともかく、僕はそれから三郷市を抜け、草加方面にいくかと思えばさいたま市のほうへ向かい、果ては川口駅から京浜東北線を南下したのである。ここで僕はランニングする老人に跳ね飛ばされ罵声を浴びさせられた(あれは本式の罵声で、老人的母性のかけらも感じられないものだった)ことにより、22時間時点でウォーク続行を断念したのだった。赤羽駅から乗った電車の中で途中断念の悔しさにまみれつつ、せめてもの償いとして老婆に席を譲ったのだった。長くなったのでもう一度述べておくが、これが僕のロングウォークの始まりである。


つまり、僕にとってロングウォークとは孤独行事として始まったのだった。そもそもこの歩行の真っ最中、僕が大学で所属していたテニスサークルの皆は新入生歓迎の合宿だったわけで、僕はただならぬ孤独というものを感じつつ歩いていた。胸中をここに書かせてもらうなら、僕はそのことをこの上なく幸せで、青春らしくかっこいい時間の過し方だと考えていた。人生は人間一人のものであって、歩行もまた然りである。一人の人間が一人として一人の自分と向き直る。この瞬間こそ人生の甘美なのだ、そう信じて疑わなかったと言ってよい。


忌憚なく言えば、この信条は今の僕がもつところのものでもある。一人の時間も大切ね、とよくOLが言うようなレベルからもう一歩抜き出た感覚において、僕は一人自身であることを自分自身であるということに重ね合わせ、それを大事にしている。このことは僕の死生観、つまりは人生観とも重なってくると思うのだが、人間一人になってしまう、あるいは一人になるべき瞬間・継続時間というものを避けられずして通過、あるいは選択するのだ。死というのはその絶対瞬間であって、生という瞬間においては絶対を凌駕する絶対として母親という包含するものがそこに立ち会う、というより、僕が主体としての語り手の役目を放棄することを恐れないで言うとすれば、その生そのものの創造者である。僕の母親への信仰というのはここに由来するところが大きい。


しかしながら、そう、ここまで言っておきながら僕は覆そうとしている。何を覆そうかというと、孤独そのものへの信条である。僕はひとりで歩くのみではなく、数々の友人とも歩いてきた。その場でしか触れ合えない箇所に触れ合った友人もいた。ロングウォークとは10時間どころではない時間を要する行事(友人とであるからこそ成立する呼び名だろう)であって、会議、喫茶店、デート、その他もろもろの一般的人間関係における長時間の対話を超越した対話へと、僕達を誘ってくれるのである。この点で僕にとって、ロングウォークを共にした人々というのは恋人や家族を超えた共有点をもったことがあると言ってもよいほどなのである。


埼玉をおよそ60キロかけて歩いたときもそうだったが、多摩川まで9キロ、浅草まで22キロの道のりを歩いたとき、福岡の志賀島を回るために35キロを歩いたとき、僕は独りだった。それはそれとして、僕の人生における熟考の半分を占めるのではないかと思われるほどの思考時間を僕に与えてくれた歩行だった。まさに熟考というべき時間が流れ、僕はまるで車のエンジンそのものになったような心持で無意識の足の回転を感じつつ、頭の回転を遠心力の最大限まで高めようとのぼせ上がるのであった。しかし、僕はこんな奇行(独りのロングウォークには相応しいかもしれない)に付き合ってくれる、あるいは既にそんな奇行をモノにした人々と出会うという機会に恵まれていた。この点に関していえば、僕は世界のなかでも恵まれた男として有数のランカーになるのではないかという気がしている。


まずなんと言っても夜ピク2011、2012年と参加させてもらったことだろう。冬の始まりに奥多摩から立川までの40キロを歩破するというこのイベントは恩田の『夜のピクニック』に端を発したという、いかにも青春を青春として過そうという若者らしいものだった。僕は恩田の作品については大学の友人から教えてもらっていた(この経緯についてはすぐに書く)ので、すんなりとイベントの生起を受け入れることができたが、如何せんTwitterでポチッと参加申し込みをしたために、胡散臭くてしょうがなかった。正直なところ。さらには単身での参加だったために、不安というかもはや恥ずかしいというか、就活もせずに僕は何をやっているのかと自身を疑いにさえかかっていた。それは2011年の冬、周囲はインターンシップの話題で持ちきりになっていた頃のことだった。


その結果を今でこそ僕は知っているし、皆様に自慢してきたことから僕がどれだけ夜ピクに満足したかは周知のとおりだろう。僕は大勢で歩くこと(それも初対面に近い)に不安を懐いていたことも忘れ、足を動かしながらの対話、会話に完全に心を許し、浸っていた。そして夜ピクについて僕が満足していることの自慢をあと少しだけ続けさせていただくことを許してもらうとするならば、僕はこのイベントが2年連続で参加できたこと、そして、そこへ自身の友達二人を誘うことに成功したこと、こうした事実を挙げたうえで、今一度喜ぶことも、そう罪深いことではないだろう。運営していた皆にとってはもっと大変なことがらが多くあったかもしれないが、僕が主体として僕の目線で夜ピクを語るならば、僕はこの事実に対して大いなる満足を懐いており、今後も動かぬ喜びとして心に懐き続けるだろう。一緒に参加してくれた大学の友人二人に対しては、この点での感謝をこれからも何回も伝え、また共有したいと願っているところである。


さて、そうして夜ピクへ一緒に参加してくれた二人の友人のうち一人とは、ロングウォークの喜び(と、また僕主体として憚りもなく言うことにする)を共有したことが夜ピク以前にもあって、そのとき僕は初めに、かの恩田陸を紹介してくれた大学の友人に声をかけたのだった。


あれは夏だった。事前の予習としてその友人が挙げてくれた『夜のピクニック』は、僕が初めて独りで歩いたときにそのストイシズムに染まってしまった『老人と海』に負けず劣らず、僕にとっての「歩行文学」として僕の本棚に鎮座している。このときは田町からみなとみらいまで、最短で行けば25キロくらいだったろうか、そのくらいを歩いた。友人(男)の下ネタに愛想笑いをしているうちに道を間違えるという大崎辺りでのトラブルもあったが、それはもう、今後僕の人生における全ての夏の夜に色付けをしてしまうほどに強烈な体験だった。友人(女)には改めて、そして友人(男)にはこの思い出に対して特別に、感謝し、またこれからも話し合う機会があればと願っている。


そして最後に高校の同級生とのロングウォークがあった。本当は僕のガールフレンドと彼のガールフレンドと4人で歩く予定だったが、あの大雨では、そしてあの疲労感では「そんなことしなくって良かった」と少しだけマスキュリンな、ほとんどホモ・ソーシャルな事後回想に浸るのだ。あの大雨のなか一緒に歩いてくれた高校の同級生には特に感謝したい。いつも僕の下宿先であることないこと、いや高いところから低いところまで、夜中よく話しあったものだった。第一志望となる企業面接の前日も、心配になるほど遅くまで、いやもはや朝まで話し合っていた。だからあのウォークに関して時間の特別性という感覚は薄かったが、距離を共有し苦しみを共有するという自虐的快感、さらに同じ地元の福岡の有名拠点を歩破するという名目から、新しい発見が多くあったのではないかと思う。また語り合うことは多くあるだろう。


「最後に」と一度目に記すまで、ここまでの文章を要するとは思っていなかった。ここまではほんの前置き、いやそのまた前置きにすぎないのだから。そして二度目の「最後に」だが、僕は一度、最後のロングウォークだと決意したことがある。


僕は80キロという数字を凌駕しなければいけないと思い、そのコースを設定した。それは自宅がある川崎から白子浜までの、およそ90キロの道のりだった。もし休息をしっかりとれる施設を把握していたり、二日がかりで歩くという決意なり計画があれば実現したのだろうが、僕はその距離を一息であるくつもりでいて、今思えば当然のことだけれど、失敗した。たどり着いたのは計画の半ば、丁度45キロ地点にある海浜幕張駅で、僕はこの挫折、ロングウォークを始めて最大の挫折という遺恨を背負うことになった。大げさな話かもしれないが、僕にとって海浜幕張から電車に乗り帰ってきたという事の大きさは、軍国主義にあえぐ軍人が捕虜になるとか、貞操を訴えて叫び続けた僧侶が恋に落ちるとか、そういった、狂気を呼びかねない失態だった。僕はあの日自分を裏切り、絶対のハレを打ち破って日常へと這い戻ったのだった。


その挫折は2012年の6月のことだった。雨季に見つけた晴れ間はことごとく曇り、僕のうえに大粒の雨脚が強まり続けた。最悪の心持ち、言い表しようのない不安と敗北感をなんとか書き起こすとしたら、こういった表現になるのかもしれない。形容のできない、ただ茫漠としたあざけ笑う声の雲。僕はFacebookのアルバムに「FINAL Walk」と題うちアルバムを挙げ、いい訳めいた説明をつけて写真をあげた。どこか笑い話にしてしまいたくて、失敗しちまったんじゃねえか結局、と笑ってほしくて、冗談らしい言葉で苦痛の記録を修飾していった。ごまかしに次ぐごまかしは真実になりえず、その絶対の差異を目に入れないように目をつぶったまま、手探りで前に進むしかないのだった。


そのアルバムについたコメント、「最後とは言わせない」だけが真実だったように今は思う。それは、田町からみなとみらいまでを共に歩いた友人(男)からのものだった。僕は挫折を笑い飛ばしたいと思いながら、逆説的にも、あの短いコメントに救われていたのだった。どういう意図があったのかは図り知らぬところだけれど、僕にとってあれは、厳しい教師が人生を正してくれるような、良薬が口に苦いような、嘘が愛を呼ぶような、そういった言葉だった。


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そしてそれから半年後、2012年大晦日、僕は残された45キロを辿りにいった。初めは独りで歩くつもりだったのだが、忘年会と称した宅飲みのなかで同郷の友人に話をもちかけた。同郷の早稲田生、就活をするはずだがまだ本格化せず、大変な乗り気で参加してくれた。彼とのつながりでもう一人、年下の男の子も参加することになった。きっと軽い気持ちでの参加だったろうと思う。夜中に出発すればいいだとか言っていたし。今思えば、彼は思わず悲惨なマーチに紛れ込んでしまったようなものだったろうが、健康に帰れたことは救いだ。


この三人で、大晦日の昼14時から翌朝にかけて白子浜へ向かい、初日の出をみるという計画を実行することになった。年末年始、そして初日の出という、いわば今までに経験したことがないほどのハレ、祭りの空気に、僕は浮き足立ちながら、冒頭述べたように天気予報では晴れるといわれていた空のもと、海浜幕張まで電車で向かったのだった。


前日まで卒論をつめてやっておりその日は寝られないまま向かっていた。45キロという数字が語るところ、その重さは重々承知していたが、どうしても寝ることは叶わなかった。僕はそれほどに緊張し、半年前に挫折したというよからぬ思い出の噴出を押さえ込むのに苦労していた。浮き足立ちながらも、僕は言いようのない不安に押さえ込まれていた。


その感覚は海浜幕張に着くまで続いていった。葛西臨海公園を越えながら、まだ順調だった足取りを思い返し、舞浜では「歩いてディズニーランドに来た」喜びを再燃。新浦安あたりの公園で寝たこと、市川塩浜近くの橋には「市川市」と書かれた安っぽい看板があること、Amazonの倉庫。そして二俣新町で限界に近づいてきて、南船橋近くのららぽーとで長い休息をとったこと。サンマルクさんでは電源を貸してくれた。新習志野、足が上がらず、そして、海浜幕張。ロングウォークでいった目的地に交通手段を使っていく度に、その近さに驚かされる。しかし今回ばかりは、その近さを改めると同時に何度もこみ上げてくるはずの満足感がなく、かわりに染み出してくるのは過去の失敗からくる苦々しさ、そしてこれからの歩行への焦燥だった。僕は歩ききれるだろうか。


このとき同郷の早稲田生が寝坊したため15時スタートを覚悟するが、普段ならどうとも思わないことにさえ苛立ちがあった。間に合わないことが怖く、正確な計算がどうだとかいうより先に、とにかく「予定通りでないこと」への嫌悪があった。予定通りではないことの積み重なりが過去の挫折へと僕を逆戻りさせるのだと、そのことだけに神経が集まっていた。僕はハンバーガーショップでどでかいハンバーガーを食べながら、ただ身体のどこかを動かすことで苛立ちを忘れようとしていた。歩くのは体力を抑えるために避けなければならないし、正直なところ、不眠からの眠気で倒れこみそうだった。寝坊した友人より先に着いた年下の男の子に地図を示しながらルートの外観を確認し、茂原寄りではなく土気を通過する、つまり外房線沿いのルートでいくことに決定した。実際のルートを彼と相談することで、はじめて神経がうまく散った気がする。ハンバーガーをかき込む口は脂ぎっていた。


寝坊した早稲田生が到着し、丁度15時に僕らは歩をすすめ始めた。海浜幕張にはこれまで二回だけ来たことがあって、一度は就活のため、もう一回は前回の挫折のときだった。いずれも、意外なほど東京から遠いこと、そしてそれにしては都心めいた雰囲気があることに驚いたように思う。そして今、またそこを訪れ、ハンバーガーを食べるだけでそこを去っていく。海浜幕張を出てしばらく進むと、一望する、という言葉もあてがわれないほどに広すぎる団地があった。今Googleマップでみてもどれなのかわからない。そもそも、あの歩いた道が地図上でどれほどの太さなのかもわからない。そして地図をスクロールすれば何度も千葉みなと駅までたどり着いてしまい、僕は指の運動でもって海浜幕張と千葉みなととを、団地らしきものを探して何度も行き来した。あの大きな団地、最初に「ああ長いな」と思うまでの、千葉みなと駅までの道、それはこのマップ上では、もはや無いに等しいくらいに短い。ただその夢の在り処を示すのは、僕が眠たい頭で焼き付けた残像と、身体中が叫ぶ筋肉痛と、それだけなのであった。


この頃、すこしの間だったが強い雨が降り、一瞬間だけみぞれが顔に当たった。快晴だと信じていたが千葉方面の天気はすこし乱れ、この後もずっと曇り空であった。ここでもひとつ予定が狂う。ゴールまでの道、その筋書きが書き換われば換わるほどに、成功は薄れていく。それに、千葉駅方面へ誤って向かってしまいすこしだけ遠回りをした。まだ足が快調だからよかったものの、後々痛い回り道になってしまうかもしれない、と胸中でつぶやく。ともかく、辿るべき道である大網街道にたどり着き、僕らは意気を高めていった。最初の休憩はセブンイレブンでとった。ロングウォークをするたびにコンビニにお世話になるから、コンビニでご飯をとることは僕にとって安心をもてる時でもある。安物、都会的、薄汚い、そんなイメージが付きまとうかもしれないが、それは同時に、僕のような人間には相応しかった。


まだ19時だったが、千葉寺(なんと読むのだろうか)を発見し、一応のところ灯りが準備されていたので、お参りをさせてもらった。入り口の門から賽銭箱まで続く灯りをぼうっと見つめながら、まだ19時だということに不安も、そして同時に勢いも感じた。実際のところこの後鎌取、誉田、というように順調な歩調であった。思ったよりも早く土気に着くことができそうで、僕は早めに土気に住む友人へメールを入れておいた。メールは普段使っているソフトバンクではなく、ウィルコムから送った。というのもメインの携帯はいざというときのGPS使用のために電池を温存しておきたく、常に電源をきっていたからだ。携帯で記録しながら歩いていればこの歩行記もより充実の描写となっていたかもしれないが、それは経済力と忍耐力の許さぬところである。電池パックをたくさん買うわけにも、暗い中携帯を見つつ歩くわけにもいかない。思えば大網街道沿いだったおかげで道中、土気から大網の間を除けば基本的に明るかった。


この「土気に住む友人」とは何者か。彼には僕が以前の挫折を経験したウォークでも会いに行きたいと思っていたのだった。土気に住んでいる彼は、神奈川や東京の都心に住んでいる僕達からみればまるで未開の地に住んでいる民族のようだった。土気というエキゾチックな匂いがする土地名もまた、そういった情感を強めるのだろう。そして、僕は依然彼に会うことは叶わなかった。彼に会うということはすなわち、異界ともいえる千葉の辺境まで歩いたという証明であって、僕は今回の歩行でそのことをどうしても計画に組み込みたかった。大網街道沿いだとすこし遠くなる気がしたが、そのことは他の二人には伝えずに歩いていた。(今マップで調べたところ、そんなにかわらない。2キロくらいだ。まあこの2キロが、実際の歩行では効いてくるのだが)





誉田に着いてからはあと一駅ということで、もはや土気の友人に会ってしまったようなもんだと思っていた。しかし彼がメールで「意外と遠い」と送ってきたことがそのままに的中し、畑のなかで街道を見失い、陸橋ひとつを渡るか否かで会議を開き(この頃には足の疲れを意識し始め、階段は避けたかった)、というように「千葉の本気をみた」と騒ぐ我々であった。たしかにこの頃からだったろう。ことあるごとに座りたいと思い、意味の無い笑いをひとつひとつ取り上げ、そのたびにエネルギーの消費を後悔するというサイクルを始めたのは。


月が輝いていた。


月が輝くということは、脇役としての星がかすむということでもある。しかしその日の星は十分に綺麗で、存分に胸をはっていた。そして、その日の僕たちは月だったろうか、星だったろうか。いずれにしても自分の足で歩いているという自負に胸をはり、運動の熱で赤々と輝いていたのだろう。月が三つあると今後問題がありそうだから、やはり星だろうか。だとすると三つの星はかわるがわる位置をかえ、星座学者の眉間に皺を寄せさせたことだろう。やけに強く輝いたり、ときに意気消沈して消え入りそうになる三つの星は、その日その日で違う星座になるのだった。しかし三つ共にいるということだけは、学術的にも、経験則としても、疑いようのない事実なのだった。


僕らは土気の住人に会った。原付チャリで現れた彼が「ガキ使見てた」なんて言うと、土気に来たのだ、歩いて来てしまったのかもしれないという主観的仮説に対して、客観的観測に基づく実験結果を足したような気持ちになるのだった。僕たちは記念写真を撮り、大網駅までの道は注意したほうがいいという彼のアドバイスをもって、次の駅へ向かった。大晦日は大網で迎えるのはどうだろうかという相談を彼にしてみると、丁度いい頃合だということだった。


ちなみに写真は、まだ元気のあった僕ができるだけカワイイ女の子に撮ってもらいたく、駅を降りてきた人々のなかから厳選した人選を経た方に撮ってもらった。女の子は写真を撮ってくれた後、すぐに駆けてどこかへいってしまった。駅前のロータリーに止まっていた車の中から見ていたその子の母親と思しき人と車の中で談笑していた様子をみて僕は、ロングウォークをして、他人に話しかけて、すこしだけ笑ってもらえる、すごいねと声をかけてもらえる、その感情をもう一度思い返していた。それは子どものころ小学校に通うときに経験した近所の、通学路沿いの何の関係もない人からかけられる「おかえり」「いってらっしゃい」「気をつけて」という、言葉という言語記号を発生することによる関心愛の表現に近いのだった。僕はきっと、そうした関心の寄せられ方をこの歳になって経験することで、ノスタルジアとしての「気をつけて」へと回帰していったのだろう。


ひとまず土気の住人には御礼を述べたい。わざわざ出かけてくれたということだけではなく、彼と土気で会うということは僕にとって、自分でたてた目標としてこれまでにない大きな意義をもつと言っても過言ではなかったのだ。ありがたいことにその目標に付き合ってくれた男が二人いて、男4人というなんともマッチョな写真を撮ることができた。ありがとう。


大網まで一時間では着くことができないと判断した僕たちは、土気からすこし離れたコンビニ(またしてもセブンイレブン)の横にあったベンチ(なんと都合のよいことか)に座って小さな宴会を開くことにした。しかしここでも、まず座ると早稲田の寝坊した友人にクエン酸の粉末をもらい、すこしシャツをめくり腰にアンメルシンを塗る。何よりも身体のケアが重要で、それは何よりも重要な目標の達成のためであった。僕たちはどこからか聞こえる除夜の鐘を聞きながらそばを食べ、一本のチューハイを飲んだ。質素だがこれまでのどの宴会よりも素晴らしい、などと安易な形容と述懐はしたくないのだが、当時はまさにそんな心持になって、麺をすすっていた。ロングウォークをする度に特別な食事としてコンビニのご飯をたべるが、この時のカップそば、そして2012年の夜ピク2班で食べた(あれもたしかセブンイレブン)博多ラーメン、このふたつは絶賛、賞賛に値するシロモノであった。食べ物としての味覚というより、自らが置かれた環境と、普段の生活で何ら支障なく目にすることのできるカップ麺という平素さ、それらの差異の値が増大に増大を重ねたのだろう。極限、とはいうことはできない。狂言の味はきっと、死に際に食べるカップヌードルなのだろうから。


大網は遠く、歩道はなかった。僕らも怖い思いをしたが、車の人はもっと怖かった、というより心霊現象を思っただろう。こうして山道を歩くたびに思う。大学一年生の頃か、博多から飯塚までママチャリに乗って山越えをしようという計画を福岡で実行したことを思い出す。その時は台風の次の日で山道には車両進入禁止だった。僕は自転車なものでいけるだろうと一人合点をして山に入っていったのだが、不可解なことに車が、山頂付近で横を通り抜けていったのだった。あれは霊か何かかとひとりパニックと面白さとに身もだえしたが、よくよく考えてみれば山の上にも住んでおられる方はいるわけで、多分その人の車だったのだろう。そして、彼からすれば僕の方こそ「台風がすぎた後に山越えする少年の幽霊」だったろう。結局そのときは土砂崩れの跡に激突し(文字通り、降り坂で土砂に激突した)、山越えはならなかった。夏の夜、当時のガールフレンドを驚かそうという浅はかでありながらも色濃い、思い出のひとつだ。


大網方面へ歩いているなか、後ろを7、8人の人影が動いていることに気がついた。ややもすれば地元のヤンキーかとも思ったが、影の大小差が大きいことから、妖怪の群かという算段をしていたが、近くに彼らがきたときようやく、人間の一家が歩いているのだとわかった。彼らとはながらく歩調を同じくしていたのだが、コンビニ休憩(そのときはローソン)でタイミングが重なったときに「どちらからか、お歩きですか」とたずねると「はい、鎌取からです」と父親らしき人が答えてくれた。

「ああ、鎌取、僕達も通ってきました」

「へえ、どちらから」

「海浜幕張からです。白子まで」

「へえ、それじゃ本当に房総を横断なさるんですね」

「ええ、そのつもりで。あけましておめでとうございます」

と、一連の受け答えがあったが、僕は同じような計画をしている人間が、しかも一家として存在していたことに満足と歓喜を思っていた。後々考えれば「鎌取なら通りました」というのは受け取り用によっては厭味に聞こえるかもしれない、とも思う。しかしそれ以上に僕は、あの子どもたちがお父さんと歩いた千葉の道のり、初日の出を海岸でみたこと、それらをどのように扱っていくのだろうかと、そのことを考え満悦に浸った。きっと彼ら子どもたちはその日一日中愚痴を言い苦しい苦しいと喘ぎ、次の日にはお雑煮を食べながら足の痛みをお母さんに訴え、一週間するところりと忘れ、一ヶ月すると新しい忙しさに追われているのだろう。そして受験や就職や若手期間を乗り越え、お父さんが死ぬときになって千葉の歩行を思い出すのだろう。心だけでなく、その日の足の痛みが全身のなかで際だって震えだし、父と歩いた一歩一歩を回想の渦に巻き込むのだ。歩行隊の長であったお父さんが死ぬときになって子どもたちは、歩行の終わりを知るのだろう。


僕が父と旅をしたことは数々あって、よく母親を家に置き去りにして、男二人の旅をしたものだ。北海道から沖縄まで、いろんなところに行ったものだ。そして何故か、母親はいつも留守番だった。犬の世話をしているからかもしれないし、出不精なのかもしれない、もしくはお金がかかるからという理由かもしれない。いずれの理由も考えてみたが、僕としてはお母さんがいないことを悲しみに繋げたことはなかったし、そのことで不足を感じることもなかった。冒頭のほうで述べたように、僕は母親という存在をないがしろにすることはない、それは不可能であろうという信念であり確信をもっていたから、男二人の旅をすることで母親の存在が軽微になるようなことは決してなかったのだ。


そうした旅のなかで僕が最も印象に残しているのは、沖縄でも大阪でもなく、近くの那珂川の上流を目指したサイクリングだった。別段上流で清流の水を飲んだとかいう思い出があるわけでもないが、僕はあのとき、緑と黄と赤の派手な子供用自転車を離れ、紫色のマウンテンバイクを買ってもらったばかりだった。そのことをきっと父も嬉しく思った(と僕は一人勝手に解釈するのだが)ので、二人でサイクリングに出かけることにした。とくに那珂川上流と言われてもそれがどこなのか分からなかったし、地図をもってルートを確認したわけでもない。まだ幼い僕にその目標は到底不可能だったろうし、狭い世界しか知らなかったのだから、刺激が強すぎたかもしれない。


ともかく僕たちは川沿いを進むことだけを心がけ進んだ。今思えば何のことはない距離だったのだろう。何度も何度も父が煙草を吸うために休憩したのを覚えている。河の向こう側で水遊びをするコリーをみて、名犬ラッシーがいると思ったことを覚えている。その犬の毛並みが水面の反射よりもまぶしく僕の目に向かって光を送り込み、何度も瞬きをしたのを覚えている。そして僕は覚えている。ひとつ短く、すこし急な砂利道の坂があった。そこを僕はマウンテンバイクで、変速ギアを使いこなして一気に駆け上がった。いわゆるママチャリ、そうあれは黒一色でサイドミラーがついたママチャリだった。それに乗った父は坂の手前で一度サドルから降り、歩いて坂を上った。そして僕の近くに来て「さすがマウンテンバイクやな」とぼそりと言ったのだった。それをよく覚えている。僕があの大網で出会った家族がこれからもつであろう記憶のようにもっていて、これから彼らが語るであろうように語ることのできる思いではこのサイクリングにおける砂利道の坂であって、僕はこれを幾度も幾度も思い出し、幾度も幾度も忘れていくのだろう。あの時僕は初めて、父に対する優越を感じ、誇らしく思ったのだった。それはエディプスからの脱却であったとも言え、健全な少年への第一歩であったとも言える。しかしなによりもそれは、僕が父になるまでに思い返し続け、僕がきっとその子どもにも感じさせるであろう情感なのだった。


今僕は煙草を一本吸い終わり、白里へと近づいていく。まずは海に出たいと思ったのだった。建物が途切れ遠くが見渡せるたびに、もう海ではないか、もう海ではないか、と潮の香りがしてくるような気持ちがした。実際に、幻としての香りを感じ続けていた。白里に着くまでで最後のコンビニ休憩をファミリーマートでとっていたとき、軽トラのおじさんから「こっから15分もかかるぞ」といわれた。そこまでに13時間ほど歩いていた僕たちは「たったそれだけですか!」と返し、不思議な顔をされた。15分など、無いようなもの、そう思いながらも痛む足を引きずり、僕らは白里海岸についた。


千葉県、房総半島を横断し、東岸にたどり着いたのだった。


白里では初日の出をみるための人での賑わいが見られ、まだ4時というので寒さのために、焚き火が数箇所で大きく燃えていた。火と火の間を抜ければ、そこに海があり、暗闇で先が見えないところはまさに大海というべきだった。広がっているのがみえるわけではないが、暗さの向こうに広がりを感じることができた。視覚ではなく、波音で海の広さを感じることができた。近づいていくごとに増大する波音は僕が近寄ると、これまでの道のりを労うようでもあり、一方で僕らを跳ね返し、波の勢いそのままに押し返そうとしているようでもあった。僕は波のもつ力強さを好意的に受け止めて、吸収した。





砂浜のうえにビニールシートを敷いて三人で座り込んだ。遅刻した早稲田生がまず背中のほうへ倒れこみ、僕もそれにならい横になる。背中が広がるときに全身のしなりを感じ、乾いた巨木が動き出すような感触を覚えた。エントのように命を宿した木に、それまで乾いていた木としての身体に染み入っていく水は、波音だった。それは僕の体の隅々から、おそらくは空気振動を媒介として入り込んできて、僕の中でエントロピー増大を続けた。波音に波音が重なり、これまでの道で重ねてきた足音とリズムが合致する。そして会話の音が入り込み、全ての音が単一の波長として調和する。


僕はそうしながら、付き合っているガールフレンドのことを唐突に思い出した。僕は彼女と付き合ってもうすぐ一年になる。ずっと前から、正確に言えば大学一年生のときに一目みてからずっとずっと大好きで、いつしか思いを告げたいと想い続けていた女の子だった。ガールフレンドという言葉はもはや似つかわしくないのかもしれない。それは僕の宿命を委ね、彼女の宿命を僕も担うべき人だった。房総半島から臨む海は、その海原が奏でる音は彼女の髪を思わせ、大きな目を思わせ、胸を、肘を、胸を、そこから足先まで全てを思い起こさせた。僕はそのすべてを抱き寄せるように、そっと目を閉じていた。そのままずっと眠っていたかった。その時間がずっと続けばよかったと、今になっても思う。


僕は起き上がるはずのない身体をガバリとばかりに起こし、海と向き合った。そのとき「僕は、残していた距離を歩いた。見たかった海へきた」と目を見開いて、身体の中の調和が音を立てずに割れた。背中の方は大きな焚き火で温かかったが、海へ向いた顔は冷たく、こすってもこすっても温まらなかった。思えばあの時、正月だとかそういった一般事項をすべて忘れ、ただ特別なのは千葉の東岸にいること、そこまで自分の足で歩いたこと、それだけだった。三人の会話も、歩ききったということに終始していたように思う。背中を叩きあい、大声を出し合う力はどこにあったのだろう。僕にとって、ロングウォークをしたなかで最も強く喜びを表現しようと努めた機会だったと思う。


そこは、ゴールではなかった。白子浜を目指さなくてはならない。夜明けはまだ見えぬ。


東岸まで来たのだが、まだ本来のゴールではない。ここでそう思い直せる強さこそ、歩ききろうとする者の忍耐力なのだろう。僕らはまたアスファルトの道に戻り、ほとんど惰性となってきた足の回転を続け、最後の4キロを進んだ。しかし浜辺に出るまでの道の間に有料道路があって、もし日の出のときに浜辺に出られないようなことがあれば、道路の向こうで輝く雲を眺めるほかないという事体になることが予感された。そういった負の事柄はできるだけ意識しないようにと歩を進め、僕たちは白子浜へ近づいていった。足取りは遅く、たった100メートル進むのにも信じられない時間がかかった。足首が自由でないので、かかとから踏み込んでつま先で蹴るという足の動きができない。足全体をつけて、上げてという不効率的な歩き方しかできずに、時間が浪費されていった。そして日の出にはまだあると思っていた朝の6時頃、東の空がやけに明るくなってきた。


「走るぞ」と早稲田生が、この状況においては信じることが到底不可能なことを言う。しかし僕らは元々信じられない計画の最中にあったのだった。僕らは走り、浜へ出る路を探した。彼が先の方で、どうやら浜辺への路をみつけたらしいこと、そして縁石に乗って東のほうを見てみれば、まだ朝日は出てきそうにないこと、これらを確認して、僕は歩調を緩め始めた。ともかく三人で海岸に出て初日の出を拝むことにして、僕らは再び海岸へ出た。


波音が僕らを迎えてくれる。映画『好きだ』の場面にこんなのがあったかな、と思いながら、ゆっくりと砂浜に腰をおろした。東の空はところどころ橙色に染まり始め、向かい側の月が沈んでいくのをよそに、喜々とした踊りがゆっくりと始まっていた。1秒ごとにリズムが変わる空、そういう景色を意識したのは初めてかもしれない。寒い、足が痛い、そうした考えが一切の効力を無くして、僕はただ眼前の踊りをみていた。ゆっくりと関節が伸ばされる動きのような雲のうごき、喜びを決して慌ただしい動きで表さない雄大な踊り手は今、その目を見開こうとしている。身体は、その四肢はゆっくりと開いていって、自らを包み込んでいた闇を逆に包み込むのであった。闇を包み込むという、時間の静止がそこにあったのかもしれない。絶対を超えた絶対としてのリズムのなかに、僕は喜んでひれ伏し、吸い込まれていった。橙色の大元である太陽が見えたとき、僕はきっと、イデアとしての太陽をみた洞窟から出てきた人間よりも嬉しがっていただろう。彼が首を繋がれている間、僕は自分の足と意思で、歩き続けていたのだから。そして何より、彼にはいなかった賛同者が僕にはいた。共に太陽を眺めた人間がいた。プラトンよ、真理なる人、僕はいま光を感じて、そのなかに吸い込まれていくのです。二度と洞窟には戻らない、そんな心を得たのです。こうして僕らは初日の出を拝んで、残すところわずかな白子への道をすすみ始めた。





野鳥さえ僕達をあざけっているような気がするほど僕たちはぼろぼろだった。足どりが重いという段階を通り越し、ひょこひょこと実に軽いリズムで動いていた。ただ歩幅が異様に小さいために速度がなく、白子に着くまでに尋常でない時間を費やしたと思う。僕たちはぼろぼろになりながら笑っていた。野鳥に笑い返してやった。そういう僕たちの姿は、朝陽を受けてもだえ苦しむ妖怪たちの一群のように見えたかもしれない。


白子の温泉にたどり着いてお湯につかりながら、僕たちはただただ笑っていた。足の疲れや痛みはたちどころに湯の影へ消えゆき、そうこうしているうちに誰かがこんなことを言った。


「次は、いつ歩こうか」


そう言ったのが誰だったのか、僕は覚えていない。それは遅刻した早稲田生であったかもしれないし、年下の男の子だったのかもしれない。あるいは僕自身がそう言って、それに誰も反応しなかったのかもしれない。もしくはそれは、僕たち全員が心のなかでだけ、まるでやまびこに叫びかけるように発した声だったのかもしれない。それは房総半島の海がやさしく醸し出す波音に反響し、いつまでもいつまでも残り続けるのだった。





僕たちは歩き続ける。東京までの帰りの電車のなか、そのこと以外に考えられなかったことが不思議でしかたがない。その日僕は帰宅するやいなや、Google検索にこう打ち込んでいた。


「ロングウォーク 日本 巡礼 街道」


こうして、僕はまた新しい道をたどることになる。

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