僕がはじめて椎葉を訪れたのは2018年12月のこと。25日だった。僕がこれを書いているのは2019年5月のことだから、もう半年の時間が過ぎてしまった。押せば縮むし引けば伸びる時間というものの不確かさをどれほど疑おうとしても「半年」というある種長すぎもせず短すぎもしない区切りをあらわす二文字は僕に何かしらの感慨を抱かせるのに十分なものだ。
「僕が椎葉に出会ってから半年が経ってしまった」
厳密に言えば、僕がはじめてSMOUTを経由して椎葉村の地域おこし協力隊募集を見かけたのはそれより前のことになる。そうした意味では「半年」という期間を感じて今日こうして文章を書いているというのは、もはや遅すぎることなのかもしれない。それでもなお、僕はあの12月25日のことをひとつの重要な契機として、まるで人間が幼少期の最初の記憶を自らが生まれた瞬間であると信じ続けるかのように、まさに椎葉に住みはじめることをしっかりと決意することができた最初の記憶として、今なお強く胸のうちに抱きしめている。
かと言って僕は、その日のことを何かと書き連ねてこの文章を長々と続けるつもりはない。過去は一切通り過ぎていったのだ。僕たちは今を生きなければならない。そうだ、僕たちはいやおうなしに、この今という時間的残虐性のなかに生きなければならない。
これからどうしていくか。こんなことを自分自身に問うのは、21歳の誕生日をむかえた横浜の朝以来かもしれない。あの日僕は東京・港区から横浜のみなとみらいまでを歩き通して、その疲労で自分が20歳という栄ある時期を通過してしまったという哀しさを麻痺させていた。そして足の痛みが消え、みなとみらいの万葉の湯につかりながら、まったき裸のまま思ったのだ。これからどうしていくか。
その答えは、つまり僕がこの自分という半直線をどのように未来へ未来へと伸ばしていくかという問いへの答えは、いまだ灰色の霧のまま、たぶん三鷹とかそのあたりを漂いつづけている。もしかしたらそれは半直線ではなくて、もう既に線分になっているのかもしれない。あるいは僕のあずかり知らぬところで、それは永劫の静かな直線であるのかもしれない。
「これからどうしていくか」
この文章のなかに限定するところでこう問うとするならば、僕はこの問いにかろうじて答えることができるのかもしれない。僕の答えはこうだ。とにかく椎葉に来た日のことを、そしてそれからどう過ごしてきたかを、忘れたくない。もちろん忘れていないつもりだ。写真だってたくさん撮った。どれも緑が豊かで素敵な写真で、ここが僕の知る日本ではないということをひしひしと感じさせてくれる。ここはやはり、とくべつな場所なのだ。とくべつな時間なのだ。
だから僕は、これからできるだけ無駄な文章を使わないようにして、毎月椎葉で何があったかを書いていこうと思う。写真を載せようと思う。できるだけ簡素な説明を添えようと思う。そうだな・・・そのとき何を考えていたのかは、簡潔にして明瞭潔白なかたちで、無骨な雰囲気のバーで生のままアイラ・ウィスキーを飲むときに無言で出される水道水みたいに、すっきりと書き残すことにしよう。それが今後の僕のやり方になるだろう。たぶん。
言うことはほかにない。これがはじめて椎葉を訪れた日の夜景だ。この日は地域おこし協力隊のみなさんが歓迎の会を催してくれて、面接前夜の緊張が解きほぐれ去ったことをよく覚えている。もちろん今や、僕がその地域おこし協力隊の一員になることができたことは言うまでもないだろう。
以上である。
以上である。もう写真はないのである。
・・・ほんとに以上である。ごめんなさいである。
これだけ前振りを長々と述べておきながら、はじめて椎葉を訪れた2018年の12月、僕はたった2枚の写真しか撮っていなかった。
なに?余裕がなかったの?面接でキンチョーしてたの?もったいなくない?どうしたの?え?おい?
・・・反省である。
たぶんここで猛省したのであろう。次に椎葉を訪れたときからはびっちり写真をとっている。もうこれは皆さんに期待いただくほかないのである。次回の記事にご期待あれである!
ちなみに12月25日のこと、僕がこのヌワラエリヤのカレーを食べてお腹びちびちだったことは誰にも言えない秘密である。
「これはブログだろう」「公共性のある記事ではないか」などと無粋なことを言ってはいけない。とにかくこれは小宮山史上最大級の秘密である。そしてこのヌワラエリヤは福岡・赤坂にあるのだが、ツナパハさんの系列店とあってとても旨いのである。
ちなみにこのときの小宮山は、森見登美彦の『夜は短し歩けよ乙女』を読み返しながら、新作『熱帯』を読んでいた。僕の読書人生を変える一冊を、僕の人生がかわる2018-2019という節目に読んでいたことは偶然の域をこえたブックス・ミラクルである。
すべてのものごとはつながっているのだ。
本も、人生も、あなたも、わたしも、あのひとも。
「なぜ我々が『熱帯』を最後まで読めなかったかといえば、現実との境界としての結末というものが『熱帯』には存在しないからですよ。それはつまりどういうことか。我々はまだ読み終えていないということなのだ。あの日、あなたが頁をめくって辿り始めた物語はそのままこの部屋へと通じている。お分かりか。我々はいまも読み続けているのです。この『熱帯』という世界の頁を繰っているところなのです。
森見登美彦『熱帯』(文芸春秋、2018)p.129