2018年のまとめ~池尻から羽田へ向かうタクシーの中で~
- 小宮山剛
- 2018年12月31日
- 読了時間: 11分
更新日:2019年4月23日
池尻大橋から羽田空港まではなかなか行きづらい。渋谷まで田園都市線、品川まで山手線、そうしてそこから京急に乗り換えなければならなない。東京というのはつながっているようで、悪い意味で分散されている都市なのだ。こういうとき、福岡うまれの身としては福岡空港の便利さを引き合いに出してぼやかずにはいられない。世界で最も都市部と空港が近いのは、福岡か、あるいはアムステルダムだろう。アムステルダムには行ったことがないけれど。
結局2018年の帰省にあたって、僕は246でつかまえたタクシーに乗り込んだ。19時30分の飛行機に乗り込まなくてはならないのに17時に起きてしまった僕には、そうする以外に方法がなかったのだ。タクシーの運転手に行き先を告げる。「羽田空港、国内線、第二ターミナル」、以上。田園都市線も山手線も京急線も出てこない。すべてが正確で端的なやりとりだ。渋谷インターから首都高にのれば、あとは交通標識にのっとって直進するだけ。まったく、どうして乗り換えなんてものが存在するのだろう。
池尻から神泉を越え、渋谷に差し掛かる。年末にさしかかり慌てて吐き出されたものたちがたれ込める都会のなかの都会は、極めてグロテスクで破廉恥で、かつセクシーな魅力で際限なく溢れている。僕にとっての「都会」は、おそらく多くの地方出身者がそう感じたように、渋谷なのだ。森山大道が新宿の60年代をみたように、津島修治が三鷹に生涯最も長く住んだように、僕は渋谷という街の救いようのない変化の急速さにふれながら、そこで時を過ごした。2009年に僕が学生となってから、10年が経った。その間僕は、静岡に住んでいた5年間をふくめて、渋谷性とでもいう何ものかにしっかりと爪を立てて掴まれ続けてきた。いまもまさにそうなのだけれど、モノを言えば渋谷性がつきまとい、モノを書けば舞台は渋谷にならざるを得なかった。 仕方のないことだ。慶應生は、なぜか渋谷の街で集うことが多い。東横線と副都心線が接続される前だって、すくなくとも僕が入学した後は渋谷で集うことが多かった。これにはもちろん検証が必要とされるところだろう。もちろん鉄砲洲にまだ義塾があったころの塾生は、そのあたりで暴れていたんだろうし、1960年代の塾生はまた違うところで暴れていたのかもしれない。そもそも、暴れていなかったかもしれない。ふと、「1960年代の塾生」ということばがなにかもう次の瞬間には失われてしまうほどに美しいものに思える。そういう時代を大学生として過ごすことができたならば、素敵だったろうな。 僕が入学した時の東京、つまり2009年の東京と言うのはもちろんそのシンボルを東京タワーとしていて、2020年のオリンピックに関しては福岡が候補地になるかもしれないと言われていたくらいで、それでいながら神保町には古本がたくさんあるし、蒲田のおばちゃんはうるさいし、赤羽はエレファントカシマシの町だったし、というわけで今と違う街であるようでもあり、同じ街であるようでもある。連綿とした時の流れは常に信じられ、かつ常に疑われている。昨日の僕は、今日の僕たりえるのかい。僕はほんとうにそんな裏切りをやってしまったのかい。もうあのころは戻ってこないのかい。 僕がはじめて「ロング・ウォーク」というものをやったのは、島田紳助氏が24時間マラソンのランナーを務めた折りだった。2010年5月のことだと思う。あの頃僕は港区のどこそこに住んでいて、ボロを通り越して破滅的な牢獄みたいなマンションに暮らし、毎日平均3匹のゴキブリを潰しながら霞を食うような生活をしていた。その年にはとても素晴らしい出会いがあり、そしてそのあとに自らそれを失った。いま思えば、その年に僕の2018年に至るまでの哀しい出来事たちの連鎖の最初の鎖が、固く結ばれてしまったのだろう。とはいえその5月の朝は快晴で、僕は人生に微塵の不安もなく起床し、肩のしたで一匹のゴキブリが死んでいるのを見つけた。そしてふと、「僕も24時間歩いてみるか」と思ったわけだ。それは島田紳助のせいでもあり、肩の下で死んでいたゴキブリのせいでもあり、部屋の窓の前を走る首都高の騒音が横須賀の町で響くジュークボックス3台分くらいにうるさかったせいでもある。とにかく僕は東京タワーへ向かい、東京の起点であるそこから、スカイツリーへと歩き始めた。それは、時代をのぼる旅だった。 東京タワーからスカイツリーまでは、たぶん10㎞もなかったと思う。時代を重ねてきた二つの塔の間は、ほんの2~3時間で歩けてしまうのだ。僕は御成門を過ぎ、新橋を過ぎ、銀座界隈を過ぎた。当時は銀座の街にあんなにたくさんの美しいガス燈があることなんて、まったく知らずに歩き去ってしまった。なにせ僕は20歳で年若く、村上春樹のことばを借りるとするならば「風が吹いただけで勃起する」ような青少年だったのだ。もちろん、そんなことばはできるだけ借りたくはないけれど。僕はもう、自分のことばで語らなくてはならない年齢に達しているのだ。 日本橋を過ぎるとき、東海道の起点となる場所を通り過ぎた。その日はなんとなく写真を撮っただけで、まさかその東海道をその後辿って歩いていくことになろうとは考えていなかった。僕は多分、人生の予感というものには疎いほうなのだ。ただなんとなく岐路に立ち、ちょっとでも視界のよいほうを選びがちな人生なのだ。浅草を通り抜けるときは、ただ黙々と歩いていた。10㎞という距離はなかなか疲れるものなのだ。河童橋にも浅草寺にも目もくれなかった。その日は5月の連休の真っただ中だったから、そもそもそういう観光地に立ち寄る隙間なんて一切なかった。 隅田川を渡りツリーまであとわずかというところで、2匹のパグが民家の軒先で寝そべっていた。他のどの景色も忘れているけれど、このパグたちのことだけは忘れない。人生にはそういう瞬間というものがある。僕は往々にして、重要とされるものを見過ごし、些末なことをよく覚えているのだ。流星群を眺めるクラスメイトが履いていた靴の色、初日の出の瞬間に届いた好きな女の子からのメールに使われた絵文字、ふるさとに新しくできた居酒屋チェーン店、泣いている人の足元にたまったホコリ。 スカイツリーはまだ、半分も建てられていなかった。たしかその写真がどこかにあったと思うのだけれど、どれだけ探しても見つからない。僕は半分もできあがっていないスカイツリーがどんなにみじめな姿だったかを思い出そうとするのだけれど、浮かんでくるのはあの軒先で寝そべった2匹のパグばかり。僕はいつも、大切なものを見過ごして生きているのだ。 僕はスカイツリーにたどり着いた後なんだか拍子抜けしちゃって、もうこのままどこまでも歩いて行こうかという気持ちになった。なんといっても24時間歩き続けるのだ。どこへだって行ける。僕は当時ガラケーだった携帯電話の電源をシャットして、ただただ目先が赴くままに歩きつづけた。結局僕はその日足立区のあたりをうろうろし、亀有や金町のあたりで夜を迎えた。そのまま一度は千葉方面に向かおうとしたけれど、松戸の手前、つまりだいたい水元公園あたりから進路を埼玉のほうにとった。広い公園の池からはしんしんとした無音の音が聞こえてきて、このあたりから僕は自身が何をしているのかわからないという、自分の意志の在りどころがつかめない状態に陥っていた。そしてもちろんその症状は、今も継続的かつ強固なものとして在り続けている。 埼玉の三郷市に入っては、ひたすらに北上し続けた。でも新三郷のあたりになるともう街灯なんてないような道路がいくつか出てき始めて、心細さからかだんだんと八潮とか草加のほうへ、つまり西へ西へとぶれはじめていた。たぶん、東京に戻りたかったのだと思う。「東京に戻りたい」。東京の人間でもないのに、おかしい話だ。 越谷のあたりでぽつぽつと休憩が増え始めた頃には、日をまたぎ終電など無くなっていた。僕は歩き続けるしかなかった。けっきょく川口あたりまで歩いたところでもう島田紳助も24時間も糞くらえだという気持ちになって、一路南下し東京へ向かった。川口駅を過ぎたあたりから、東京の北区に進入するということがだんだんとわかってくる。標識に浮かんできたのは「エレカシ」である。いや、「赤羽」である。なんだかもうくだらねぇとつぶやく気力もなかったけれど、さぁがんばろうぜと思ったものである。それ以来僕はロング・ウォークの終盤になると泣くようになってしまった。もちろん、一人のときに限るけれど。京浜東北線は休日とはいえ混んでいて、僕は足をふるふると震わせながらつり革を握りしめていた。たぶん周りの人は上下ジャージ姿で震えながら赤羽より乗車した僕を見て、度の過ぎた酔っ払いだと思ったことだろう。 それが2010年。 僕はいま2018年の東京に住み、池尻から羽田までの道をタクシーで走っている。首都高渋谷線を走り谷町JCTを過ぎれば、ビルの色合いがシックになってくる。僕にはそういう大手町的な、あるいは永田町的な東京に立ち入る機会は与えられないのかもしれない。もちろん、そんなものは要らないんだけどさ。でもその寂しい群衆のなかでひときわ目立つ僕のアイドルがいる。偶像としての東京。僕にとっての永遠の表象。新しい過去であり、懐かしい未来。首都高から、東京タワーがみえていた。 あの日お台場からみた東京タワー周辺の景色は、夏の夜に蒸発した東京湾の水気のせいで水槽のなかみたいにぼやけていた。その時の記憶もまた、僕にとっては曖昧なものになってしまっている。ねぇ、あの日僕はどこの誰とどんな時間をどんな風に過ごしたんだっけ。僕はいつも大切なものを見過ごしてしまう。覚えているのはただ、2匹で寝そべるパグと、水槽のなかの東京タワー。紅い光が水の中に万年筆のインキみたいに滲んで、近くを泳いだ熱帯魚のせいでかき消されてしまった。とりとめのないセダクション。あの夏の夜くらいは永遠だっていいじゃない? 僕は東京タワーを左手にみながら、28歳になったのだと実感する。東京タワーは何歳だったっけ。昭和33年生まれの鉄塔に、なぜ僕はここまで惹かれるのだろう。そうこうしているうちにタクシーは芝公園をとおく離れ、レインボーブリッジに差し掛かる。この橋を渡れば、僕は何か変わることができるだろうか?何を変えたいの?なんで? 「なんで?」 年末年始になると人は変わろうとしたり、変わらないようにと願ったり、大切なものを失ったことを悲嘆したり、あるいはそのことにひとつの区切りをつけようとしたりする。しかし、ただ連綿とつながる時の流れの中で、そうした便宜的な行事の意味合いをあまりにも深くとらえすぎることは、ときとして大きすぎる負担になることだと思う。何かの決意というものは日々揺らぎ、また日々別のものとして結ばれ続けているのだ。たとえば僕は今年静岡を離れ、東京に住むことになった。多くの人に語ってきたように「東京に3年間住んで、次の土地、おそらくは福岡に移り住むための基盤づくりをしたい」という決意をもっていた。そのことだって、何一つ元の決意通りにはならない可能性があるのだ。それはそれとしていいじゃないかと思う。ここで僕が「来月からはギリシャのミコノス島に住むことにします」といっても、それはそれとして現実の一部分として成立しうることだと思う。僕がギリシャにいこうが北海道にいこうが青森へ行こうが京都へいこうが、東京タワーは夏の夜の宵霞のなかで紅くにじみながら佇んでいるのだ。それはそれとして、僕だけが保ちうる永遠の一部分だとしても、残しておいて害のあるものではないだろうと思う。 鞄のなかには森山大道のインタビュー集があり、1969年の東京に関するエッセイがあり、森見登美彦の小説がありボードレールがありフィッツジェラルドがあり村上春樹がある。いったいこんなにたくさんの本をどこで読むんだろう。そんな疑問がありつつも、素敵な本をもつ旅というのは何ものにも代え難い幸福であるということを僕は知っている。今年はとにかく映画ばかりを観ていた。150本の映画を観たのだから、まあ2日に一本くらいの映画を観たことになるといってよかろう。その代わり、もう本はぜんぜん読んでいない。自分の書く文章にどうしても影響が出てしまうからということで、村上春樹の本はできるだけ避けてきた。とても好きで、愛していて、恐ろしい本だ。できることならもう読みたくないと思う。ああいうものが書けないのならば、いなくなってしまったほうがいいとさえ思う。 年末の最後に、森見さんの『熱帯』を読めたことはよかった。とてもよかった。「もうこの物語から出てきたくない」と思える彼の作品は『夜行』であり『ペンギン・ハイウェイ』だった。これらの諸作品さえあれば一生物語を繰り返すことができるのではないかと思えるくらいに、美しく構築された小説だった。 ずしりと重い鞄をタクシーから引きずり下ろすと、すぐさま保安検査場へ向かう。フライトまではあと30分だ。年末で混みあう搭乗口のことを思えば、ぎりぎりの時間だろう。小走りで目的の搭乗口へ向かっていると、福岡行きの飛行機に関する情報が掲示板に出ている。「20 minutes delay」。まぁ、そんなものだろう。予定や決意や人生の段階というのは、どういう局面においても変わりうるのだ。かつて妄信していた未来のことなど、僕はとうに忘れてしまった。僕は大切なものを見落としがちで、些末なことばかりを覚えている。もう僕は大切なものなんてすべて忘れてしまった。今ここにあるものは、2匹のパグだ。2匹の犬は、機内に連れていけるんだっけな? でも最後にひとつだけ。 細部が世界を彩っている。このことだけは、間違いがない。
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