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  • 執筆者の写真小宮山剛

2019年1月 椎葉

 1月というと、僕はまだ協力隊に着任していない。だから椎葉にはまだ住んでいないというわけだ。当時僕は東京都世田谷区に住んでいて、都会的というよりは暴力的な、知性的というよりは破滅的な生活を愉しんでいた。それは『スペインの宇宙食』縮小版のようなナイト・ライフの連続であり、どこまでも陳腐な『1973年のピンボール』、あるいは現代版『ヴィヨンの妻』といったところだろうか。とにかく僕は、東京の東京らしい東京の在り方を追い求めなければならないというはしかみたいなものに罹患し、苦しみもだえていた。


 それでも僕は、1月の福岡帰省が終わるとまず高千穂へ向かい、すぐさま椎葉へ車を走らせた。4月から住む村ではあるが、きちんと住みはじめる前に僕は椎葉に住むということの「感覚」をつかんでおきたかったのだ。もちろん高千穂の観光地をみておきたいというのはあった。しかしそれは、単なる言い訳に過ぎない。僕は高千穂の観光地なんて、今までに105万回は訪れているのだから。

 

 とはいえ、福岡でむかえた初日の出と初詣、そして高千穂の天安河原もすばらしかった。


福岡・博多でみた2019年の初日の出

初詣は山王公園にある日吉神社にて

天安河原に向かう途上の木漏れ日が美しい

初詣の方々でにぎわう高千穂

高千穂牛も美しい

 と、こんな具合である。東京の生活と連続した、観光と美食。僕は安穏と過ごす日々の延長に安堵し、高千穂のホテルソレストで眠りについた。この日熊本では大きな地震があり、高千穂もかなり揺れた。


 翌朝、僕は目覚めるやいなや椎葉に向かった。そこには何の目的もない。何の脈絡もない訪問だった。「なぜ椎葉にいくの」と訊かれても僕には答えられなかったし、実際僕は一人旅をしていたから、誰にも答える必要なんてなかった。答えがないだけではなく、そこには問いかけすらもなかった。


 とはいえ、椎葉で訪れてみたかったところがある。「仙人の棚田」である。椎葉村の名を検索すると、インターネット上ではもれなくヒットするのがこの棚田の景観であろう。僕はその画像たちをみつめ、凝視し、疑い、自らの目でみてみたいと思った。そしてこれから僕はこのブログに「仙人の棚田」の画像をアップロードすることで、またもやインターネット上の棚田を増やしてしまうことになる。


 もしこのブログを読んだ方が僕の画像をみて少なからぬ疑いをもったとしたら、ぜひご自分で、あるいは僕と一緒にここを訪れてほしい。画像では表しきれない土地の空気が、この画像データの微粒子の向こう側に隠されている。



仙人の棚田

白黒になった、仙人の棚田

なんだか哀愁ある、仙人の棚田

これだけが無加工の、仙人の棚田

どんだけ棚田増やすねん!


 僕が棚田を眺めているあいだ、やって来る人は誰もなかった。途中二羽のとんびが僕のすぐ間近まできたけれど、つまらなそうに引き返していった。とんびは対岸の棚田の遥かむこうへ飛び去って行き、姿が消え、声が消えた。僕はそのとんびをみながら、かもめのジョナサンの神話的な飛行術のことを思い返した。


 聞いたことのない虫の声がした。年明け間もない冬の山中、どこにいるのかもわからない虫の声が響いてくるのを聞きながら、僕は前日の地震を思い返し、熊本に住んでいるという女の子のことを思い出した。その子とは中洲のバーでたまたま隣り合わせただけで、連絡先を交換したわけでもなければデートをしたこともない。僕が知っているのは、彼女が熊本の江津湖の近くに住んでいるということ、それだけだ。僕は彼女が地震で何か怪我をしなかったかと心配したが、ニュースでそのような怪我人の報道がされていなかったことを思い出し、彼女のことは忘れてしまった。


 そうして僕はまた、虫の声に耳をすました。なぜ、椎葉の虫の声が福岡の中洲で出会った熊本の女の子のことなんて思い出させたのだろう。そこにはなんの脈絡もないようで、なにかしらの思念が潜んでいるように思われた。すべてのものごとをつなぐなにかが、あったっていいじゃないかと僕は思う。


 そうして僕は、なんの脈絡もなく日向方面に走りはじめた。もちろん福岡に帰るには五ヶ瀬方面に走るべきだ。僕はGoogleマップで事前にそのことを調べていたし、仙人の棚田を眺める展望台から下るときにもそのことを念頭においていた。しかし僕は、日向方面にいくという潤った願望にどうしても抗うことができなかった。そのときに感じていたのは、不可避の現実であり、空前絶後の喜悦だった。僕は日向方面の道のりで出会うべきセレンディピティに心躍らせながら、ダイハツタントのハンドルをさばいた。



奥日向路でのセレンディピティ

傾きかけた冬の日差しが美しい

 なんの脈絡もなかったはずの福岡、高千穂、椎葉の旅が、ひとつの景色に集約されていくのがわかった。僕は路肩に車を停めシートベルトをはずしながら、長いためいきをついた。

 

「僕はこの村に生きることになるんだ」


 これは2019年の1月、僕がまだ東京都世田谷区で暮らしていたときのことである。

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