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  • 執筆者の写真小宮山剛

秋色を読む

読書の秋だ。

いやそんなことを申し上げると、体育会系の先輩に「秋はスポーツだ!腹筋352回!」と怒られるかもしれない。あるいは、毎日大濠公園の池の周りでキャンバスを立てて絵を描いているあのおじさんに「芸術こそ秋を飾るものなり。この秋は特に、儂のマスタ・ピースが完成する空前絶後の秋なり」と叱られるかもしれない。おじさんは今日も真っ白なキャンバスに、音のない音楽を奏でるかのように美しい無色を重ね続けているのだろう。


秋は、色の多い季節だ。

こんな話があった。数字を見ると色が浮かぶ人がいて、黄色のイメージをもつ数字と緑色のイメージをもつ数字との足し算を見ると、本来(つまり「正しい」算数のうえでは)それは茶色のイメージをもつ数字になる加算問題であるのに、黄緑色のイメージをもつ数字と誤答してしまう。実に豊かな世界で、実に生きにくく儚く美しい世界であると、僕は色のない「352」を見つめながら思う。あの満月と地球との距離を表す何桁もの数字を、彼はどんな色として捉えるのだろう。

そんなふうに無風流な僕であっても、秋の椎葉村では美しい景色をふんだんに楽しむことができる。


色づき始める椎葉村の紅葉

鮮やかな衣装に身をまとう「鶴富姫」

そして椎葉村でみたこういった「紅い」景色は、僕に三田を思い出させる。もちろん共に思い出す音韻と文字は、佐藤春夫の「酒、歌、煙草、また女」である。共感覚的に河島英五も出てきそうになるが、それはぐっとこらえる。そうして僕は無味無色の265を見つめながら、塾生時代に諳んじた詩句を唱えてみる。

ヴィッカス・ホールの玄関に 咲きまつはつた凌霄花 感傷的でよかつたが 今も枯れずに残れりや
秋はさやかに晴れわたる 品川湾の海のはて 自分自身は木柵に よりかかりつつ眺めたが
ひともと銀杏葉は枯れて 庭を埋めて散りしけば 冬の試験も近づきぬ 一句も解けずフランス語
若き二十のころなれや 六年がほどはかよひしも 酒、歌、煙草、また女 外に学びしこともなし
孤蝶、秋骨、また薫 荷風が顔を見ることが やがて我等をはげまして よき教ともなりしのみ
我等を指してなげきたる 人を尻目に見おろして 新しき世の星なりと おもひ傲れるわれなりき
若き二十は夢にして 四十路に近く身はなりぬ 人問ふままにこたへつつ 三田の時代を慕ふかな
三田の銀杏

まずもって、僕は大学に6年も通っていないし酒も歌も煙草も「ほどほど」だった。そうだろう?おっと、女だって「ほどほど」だったさもちろん。荷風にいたっては『腕くらべ』を読むなりその後を追うことはやめてしまったし、フランス語ではなくスペイン語を学んで、試験ではそれなりの成績を出していた。僕は佐藤春夫とは違うのだ。太宰治から芥川賞の授与を懇願されたこともない。


ただ春夫が「四十路に近く身はなりぬ」際に書いたこの詩のことはよく覚えている。「酒、歌、煙草、また女。酒、歌、煙草、また女。酒、歌、煙草、また女」と、三田を歩きながら横道世之介かのように何度もつぶやいていたものだ。彼はまあ、市ヶ谷だったんだろうけれど。そうして春夫と僕が変わらないことは、三田の銀杏が・・・僕たちを照らす木漏れ日を黄色く染める三田の銀杏が・・・愛おしくてたまらないということだ。「三十路に近く身はなりぬ」2019年の11月、僕は佐藤春夫のこの詩に身を重ねている。2020年の7月26日にむかえる30歳は、どんな色をしているのだろuねぇなんの話をしていたっけ???

 

もう・・・今回は最初から、クリエイティブ司書特集「秋色を読む」の話をするつもりだったんだ。ねぇオールド・スポ―ト、ほんとうだよ?僕の目を見てくれ、霞のない瀬戸内海のように澄んだこの瞳、その奥で揺らめく真摯な炎。なんだいオールド・スポ―ト、また話がそれている?よしてくれよ、オールド・スポ―ト。ほんとうはこんなことをしている場合じゃないんだ。明日は朝から熊本・大津町で図書館関連のイベントなんだ。図書館司書のレポートだって提出しなくちゃならない。今週末は予定がびっしりさ、オールド・スポ―ト。なぁ、Old Sport・・・。僕たちは佐藤春夫の話なんかすべきじゃなかったし、大濠公園の絵描きなんて見たこともない奴の話なんかねじり出すべきじゃなかったんだ。だいたい、僕は・・・。あぁ、オールド・スポ―ト。僕は「酒、歌、煙草、また女」なんて一句も覚えちゃいないんだよ・・・。

11月のカテリエ設置「クリエィティブ司書文庫」!

僕は椎葉村の紅い紅葉を眺め、鶴富姫の纏う真紅を精神の最中にひっそりと納めながら、またそれと同時に佐藤春夫の詩と三田の情景が重なり合うかぎりなく喧騒に近いイエローを混ぜ合わせながら、11月のクリエイティブ司書文庫のイメージを形成した。僕は自室の本棚に並ぶわずかながらの本たちをすべて取り出し、並べ替え、置きなおし、またもう一度取り出した。最終的に11月のクリエイティブ司書文庫に並ぶべきと判断された本たちは、見事に「紅葉色」をしている。もちろん、こうしたイメジュアリの遊びは、すべて僕の脳内で行われた戯れである。


『夜は短し歩けよ乙女』の「古本市の神様」が言うように、すべての本は有機的につながっているのだ。こうして「背表紙の色が赤色と黄色だから」という理由だけで選ばれた本たちも、世界のどこかに張り巡らされている大いなる伏線を辿るうちに、同じラインにぴっちりと乗っているのだから面白い。それはそうだ、と言えるかもしれない。僕たちはハノイの塔にぴったりと乗っかっていた同じことばのもとで、生かされているのだから。しかし「それは奇跡だ」というような杜撰な言い回しだって許されるかもしれない。僕はなんだったら、本と本とが結びつく瞬間のセレンディピティをいつまでも信じていたい。それも、クリエイティブ司書の仕事のひとつだろうと思うから。


紅葉に見えますね?見えると言いなさい。

「『背表紙の色が赤色と黄色だから』という理由だけ」と先ほどは口を滑らせてしまったけれど、それは大きな嘘である。どれも、僕の大好きな本たちだ。そしてそれは当然である。なんたって全部僕の大切な本たちなのだ。


そして何よりも面白いのはSons and Loversの値札がついたままであることである。これは僕が、大学のD. H. Lawrence購読の授業に出る際慌てて買ったPenguin版のSons and Loversである。しかしながら多くのD. H. Lawrenceの作品がそうであるように、Cambridge版のほうが通用しているというのが英文学界の常識だったらしい。僕は昔から、常識というものに疎かったらしい・・・。


 


Sons and Lovers D. H. Lawrence

 There was no noise anywhere. Evidently the children had not been wakened, or had gone to sleep again. A train, three miles away, roared across the valley. The night was very large, and very strange, stretching its hoary distances infinitely.

【拙訳】

(まったき無音だった。子どもたちは完全に夢の中である・・・あるいは一度目覚めていた子たちも、もう一度眠り込んでしまったのだろう・・・。5キロくらい先の谷向こうで、汽車が大きく唸った。夜闇は不可思議なほどに拡大し、そのおどろおどろしさの増長は永劫のものであった)



②『新編 知覧特別攻撃隊』 高岡修編

軍隊に入ってお母さんにお会いしたのは三度ですね。一度は去年の休暇、二度目は拠点の暮近く舘林まで来ていただいた時、あの時は新平嬉しくてたまりませんでした。
態々長い旅をリュックサックを背負って会いに来て下さったお母さんを見、何か言うと涙が出そうで、遂、わざわざ来なくても良かったのにと口では反対の事を言って了ったりして申し訳ありませんでした。
あの時お母さんと東京を歩いた思い出は、極楽へ行ってからも、楽しいなつかしい思い出となる事でしょう。



③『グレート・ギャツビー』フィツジェラルド(野崎孝訳)

「ぼくなら無理な要求はしないけどな」思いきってぼくはそう言った「過去はくりかえせないよ」
「過去はくりかえせない?」そんなことがあるかという調子で彼の声は大きくなった
「もちろん、くりかえせますよ!」
 そう言って彼は、やっきとなってあたりを見まわした。彼の家が影を落しているこの庭の、どこか手をのばせばすぐ届く所に、過去が潜んでいるかのように。



④『コンビニ人間』村田沙耶香

 何かを見下している人は、特に目の形が面白くなる。そこに、反論に対する怯えや警戒、もしくは、反発してくるなら受けてたってやるぞという好戦的な光が宿っている場合もあれば、無意識に見下しているときは、優越感の混ざった恍惚とした快楽でできた液体に目玉が浸り、膜が張っている場合もある。


⑤『夜のピクニック』恩田陸

 そう考えると、不思議な心地になる。昨日から歩いてきた道の大部分も、これから二度と歩くことのない道、歩くことのないところなのだ。そんなふうにして、これからどれだけ「一生に一度」を繰り返していくのだろう。いったいどれだけ、二度と会うことのない人に会うのだろう。なんだか空恐ろしい感じがした。


⑥風の歌を聴け

「ねぇ、私を愛してる?」
「もちろん。」
「結婚したい?」
「今、すぐに?」
「いつか・・・もっと先によ。」
「もちろん結婚したい。」
「でも私が訊ねるまでそんなこと一言だって言わなかったわ。」
「言い忘れてたんだ。」


⑦『文学的パリガイド』鹿島茂

 日本人というのは、見た目にわかりやすい名所旧跡を欲するので、文学や芸術に頻繁に登場する土地に出掛けて、それらしき名所旧跡がないと、とたんに拍子抜けする。かくいう私もその日本人の典型で、モンパルナスを初めて訪れたときには、それこそ「モンパルナスはどこですか?」という愚劣な問いを発しそうになった。それほどに、モンパルナスは特徴のない街で、ここが一九二〇年代に世界中から作家や芸術家がやって来てドンチャン騒ぎを繰り返していたあのモンパルナスかと目を疑ったものである。

 

以上の七色の本が、背表紙の色だけでひとまとまりに集まったことを、有機的なひらめきの連鎖がもたらすセレンディピティと言わずして何と表そう。そして、この結論に達するまでにどれだけのむd・・・有益な情報がこの記事に散りばめられたことだろう。そうだよ。自分のブログくらい自由にやらせてくれよ。好きなだけさ、好きなことを書かせてくれよ。そうだよ、普段は「協力隊だより」の制限された紙面で一生懸命がんばってるんだからさ・・。そう、「協力隊だより」・・・。


あぁーっ!!!「協力隊だより11月号」の締め切りすぎている!!!!


ほんと、こうしたブログを書いている場合じゃないのでした・・・。

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