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  • 執筆者の写真小宮山剛

【今更】第164回芥川賞・直木賞を読みくらべてみた

2021年1月20日の発表からはや二ヶ月。ようやくこの記事を書くにいたった。


今日は宇佐見りんさんの『推し、燃ゆ』と西條奈加さんの『心淋し川』を読んだレビューを、ひとつの記事にまとめたいと思う。なぜ一緒に書くのかというと『推し、燃ゆ』読了後に『心淋し川』を読み始めるとすぐに「あ・・・おんなじ・・・」と思うところがあり、それ以降ずっと、二つの作品を比較対照しながら読まないわけにはいかなかったからである。


<この記事の目次>

*『推し、燃ゆ』と『心淋し川』の構造的類似

*「ここではないどこか」の氾濫

*『推し、燃ゆ』の「肉体から生じる生きづらさ」

*芥箱にあり続けるという生き方

*生きづらさからの逃走か、克服か

*最後に・・・文学で繋がる術として



*『推し、燃ゆ』と『心淋し川』の構造的類似


あまりに有名な出だしのひとつとなりつつある『推し、燃ゆ」の冒頭文はこうだ。


推しが燃えた。ファンを殴ったらしい。

「殴ったらしい」という伝聞系の一言が「推し」のワードと並べられることで、普段はよく知っている(実際には遠い偶像としての)存在が渦中の人とされている騒動のスピード感と、作品全体を覆う不穏な空気が醸し出されている。


一方で『心淋し川』の不穏、というかまさにその心淋しさは、心町(うらまち)という舞台そのものから漂うドブ川の匂いと重なり合いながら、風景描写や登場人物の対話のはしばしににじみ出てくる。町全体に沈殿する倦怠感のようなものが夏に締め切った室内の空気のように疎ましく、読者の首周りにぬめりとまとわりつく。


そんな心町におとずれる最初のひと騒ぎが、冒頭章の主人公である「ちほ」の父親がもたらす動乱である。彼は、とある若い男をぶん殴る。僕はここを読みながら「また殴ってるよ」と思わざるを得ない。芥川賞・直木賞と連続で読んでみたら、どんどんと人が殴られていく。


「殴る」というのは平穏時にはまずあり得ない行動だ。平和で何の差支えもない生活(あるいは世界)において、人が人を殴ることはないだろう。心町でも『推し、燃ゆ』の世界でも、人々は鬱憤をためそこではないどこかを希求していた。生活を、生き方を、自分自身を。何から何までをも変えたいと望んでいた。両作品は「殴る」という行為を両作品の頭の部分に描き出すことで「この主人公たちは、ここではないどこかへ行きたがっていますよ」ということを明示している。


*「ここではないどこか」の氾濫


本当は「ここではないどこか」という使い古された言葉ではなく、なにか別の言葉を用意するべきなのかもしれない。それはもう、ウィリアム・モリスが'News from Nowhere'(『ユートピアだより』)を1890年に書いたときから…、いや「異界」なるものが存在しはじめたとされるケルトの妖精伝説の起こりや中世騎士道における様々な「向こう側」の勃興以来、ずっとずっと手垢にまみれてきたのだから。


昨今のブレイクもまた「ここではないどこか」の連続である。大ヒット作『君の名は。』や『天気の子』に、村上春樹作品、そしてジブリアニメの世界観をあまりに単純にまとめた言葉「セカイ系」もそうだし、『本好きの下剋上』や「なろう系小説」に多い異世界転生ものもまた「ここではないどこか」を求めての非現実的移動が物語の「起承転」を担っている。僕たちは「ここではないどこか」を求めながら、もはや「ここではないどこか」から逃れる術を喪失してしまっているのだ。


もちろん、今挙げたすべての例は『推し、燃ゆ』や『心淋し川』にぴったりと当てはまるわけではない。僕がここで申し上げたいのは、第164回芥川賞・直木賞を受賞した両作品で異世界への移動が行われているということではなく、あくまで両作品の登場人物たちが、その舞台から出ていきたいと希求していたということだ。


*『推し、燃ゆ』の「肉体から生じる生きづらさ」


『推し、燃ゆ』にはところどころ、肉体への毛嫌い(忌避)が描かれる。主人公のあかりは自分自身の肉体が生きているだけで発する垢や伸び続ける爪を疎んで憎み、クラスメートたちが浸かる学校のプールを見れば「肉、のようなものが水に溶け出している」と嫌悪感を露わにする。彼女にとっては生きることで生ずる身体の活動そのものが汚らわしいと映るのかもしれない。


宇佐見りんさんのデビュー作『かか』でもその傾向があった。それは作中いたるところに様々なかたちで登場する「血」である。家族との血縁、経血、出産時の出血。それもまた人間が生きるうえで避けることができない、よく言えば「生命の血潮」であり、おぞましい見方をすれば「赤く濁った泥濘」とでも言えようか。


また、何の文章か忘れてしまったことが恐縮なのだが、宇佐見りんさんの飼い犬だったか何かの犬(柴犬だったか?)が、生理中の経血量が盛んな時期にある人(たしか宇佐見さん自身と読めたと記憶する)が座っていた椅子を執拗に嗅ぎ回っていたことを描写し、そのおぞましさを表現していたように思う。それもまた、生命活動自体への忌避と受け止めることができるだろう。


『推し、燃ゆ』の主人公あかりが人間の肉体に対して抱く嫌悪感を感じると、僕は荻野アンナさんが何かの作品で描いたバレリーナを思い出す。彼女もまた、自らの肉体を醜いものとして蔑み、それを鍛え人ならざるものに変化させゆくことで昇華しようと努めたのであった。


そして言うまでもなくあかりが生命への忌避する方法は「推し」に傾倒することである。彼女は推しへの傾倒を、次のように語る。


体力やお金や時間、自分の持つものを切り捨てて何かに打ち込む。そのことが、自分自身を浄化するような気がすることがある。

まさに汚れた肉体を「浄化する」ための行為として必要な推しへの傾倒こそが、あかりを支え続けているのだ。


そして本作最大の皮肉は、冒頭からその推しが「人を殴る」というあまりに低等で人間らしい行為に染まっていることである。それでもあかりは推しを推しとして偶像のまま崇拝し続ける。デジタルアーカイブとしての写真や動画の収集にはより一層の力を入れ続ける。しかしながら終局部において、肉体から逃れるために信奉し続けた推しその人が、ついに明確に理解せざるをえないかたちで肉体へと回帰してしまうのだ。


もう追えない。アイドルでなくなった彼をいつまでも見て、解釈し続けることはできない。推しは人になった。

あまりに哀しい最後である。いくつかのレビューを見て、推しとの決別により彼女は「正常な」世界へと回帰していくのだという判断がなされていたが、肉体から逃れるために追い求めていた偶像が肉体そのものに成り下がってしまったとしたら、そこには「〜ロス」というだけでは済まされない慟哭が生じるだろう。


現代的なSNS世界を描いた小説(たしかにその点でも素晴らしい)や「推しというエンタメ世界のあり方」を描いた小説として『推し、燃ゆ』が取り扱われるとするならば、それは「一人のオタク少女の社会復帰に至るまでの物語」だなんて取り扱われてしまうのかもしれない。しかし彼女にとって「復帰」すべきは世間で言う「正常な」社会などではなく、果たすべきはあくまで「肉体からの逃走」であるのだ。そういう読みをするかどうかで、あかりが最後に綿棒を拾いながら固める決意の所在が変わってくることだろう。


ちなみに「推し」は結婚というひとつの成就によって「人になった」のだが、この肉体化に比較してどうしても思い起こしてしまうのが『華麗なるギャツビー』における肉体化である。主人公ジェイムズ・ギャッツは法を侵したビジネスに手を染めてまで財産を築き、自ら創造した偶像としての「ジェイ・ギャツビー」という人ならざる存在であり続ける。それはすべて、意中の人デイジー・ブキャナンを手に入れるためだった。それがゆえにデイジーと接吻を交わしたその刹那、神としてのギャツビー(Gatsby≒Got to be)は人間に戻ってしまう(reincarnation=肉体化してしまう)のだ。


僕の文章を前々から読んでいた方は「またギャツビーかよ!」とお思いになるかもしれないが、それだけ多くの作品と類推することが可能なほどに多分な要素が含まれているからこそ、同作はアメリカ文学を代表するキャノンであり続けるのだ。そしてここでギャツビーを引き合いにだしたことは、その悲劇性と『推し、燃ゆ』を重ね合わせることで、同作の悲劇的終結を強調する材料としたかったのだということも申し添えておきたい。


*芥箱にあり続けるという生き方


『心淋し川』でも、冒頭のちほなどはとくに「ここではないどこか」へ行きたがっている。嫁に行くことで、手に職をつけて、結婚をして・・・。同作に出てくる登場人物(とくに女性)たちはあらゆる手段を講じて、心町から出ていこうと求めていた(すくなくとも小説の冒頭では)。


それもそうだろう。心町の中心を流れる、というよりそこに淀み横たわるのは、ドブのような匂いをさせる心川なのだから。くたびれた長屋に住まう住人たちは皆何かが欠落しており、人生を損ねた存在がひしめき合っているような有様だ。男は博打に明け暮れるか呆けているか不具であるか、あるいは終生取り払われえない執念に囚われており、女達は囲われ、虐げられ、哀しみにくれている。


今でこそ、舞台となっている千駄木~根津近郊というのは風流で趣のある一帯だ。谷中あたりを含めて素敵な古本屋も多いし、美味しいクラフトビールのお店やこざっぱりとした銭湯なんかもある。歩いているだけで文化的な空気を味わうことができるし、住宅もどこか美しい建物が多い気がする。そのあたりには千代田線が通っていて、立地としても悪くない。


しかしながら当時の根津というと格安の遊郭があったそうで『心淋し川』を読む限り治安も悪けりゃ風も悪いという具合のようだ。住民には川の水のようにぬめぬめとした倦怠感がまとわりつき、終末的悲壮感が物語を覆い隠そうとしている。というように『心淋し川』の冒頭は読めた。


「読めた」というのも、冒頭でこそ「ここではないどこか」への逃亡を希求する者たちのストーリーになりつつあった本作だけれど、そこはやっぱり直木賞作品というべきか、心町の住民たちは次第に「こんな場所もいいかもしれない」という、諦観というよりは楽観に似た感情を抱くようになるのだ。そこはまさに「差配」として着任する際に茂十が伝えられたように「生き直す」ことができる町だったのだ。


心町で生まれたものにとって、そこは「出ていくべき」掃き溜めのような場所だったのだろう。しかし心町へ移ってきたものにとって、それは「生き直すべき」再生の地である。『心淋し川』が「ここではないどこか」への希求譚として一括にできないところがあるのは、そうした各世代・各出自の群像劇というテイストをとっていることにもよるだろう。が、一つの読みの視点をこの作品に与えるとするならば「『ここではないどこか』を求めていた者たちが『心町こそがその場所である』と気づかされる物語」だと言える。


『心淋し川』は『推し、燃ゆ』と異なり、やはり爽やかな読後感とでも言うべきか、万人ウケしそうな感想をもつことができる一作であった。


この作品は短編集のような構造をもつ群像劇で成り立っているが、その全体を通じて登場するキーマンが心町の「差配」という世話人のような役目を務める男、茂十である。彼が前任者から伝えられる言葉こそが「疎むべき存在だけど愛らしい」ような心町の在り方を示しているだろう。


傍から見れば、まさに芥箱みてえな町ですがね。汚えし臭えしとっちらかってるし。それでもね、あの箱には人が詰まってるんでさ。

こういう表現を見ると、どこかチャールズ・ディケンズが描く産業革命期のロンドンのような情景が思い浮かぶ。空気は致命的に汚れ悪党ははびこり、酒と賭博と不義ばかりが横行しているが、そこにはオリヴァ・ツイストがいたし、(物語後半で改心した)スクルージがいた。要するに、愛があったのだ。


英国が急速に栄えた革命期の情景と日本が急速に変革した江戸時代の描写が似通っているというのも、何か文学的セレンディピティを感じさせてくれるところではなかろうか。


*生きづらさからの逃走か、克服か



読み比べてみると「ここではないどこか」を巡る両作の姿勢は真反対である。『推し、燃ゆ』は生きづらさからの逃走に終始し、『心淋し川』では生きづらさそのものが受け止められ、克服されていく様が描かれていた。


後者のような作調のほうが「生きる希望」というか、これからの人生の光明を見出すための道として扱われるような向きが強いのだと思うが、僕としては『推し、燃ゆ』の主人公が抱く、人間(肉体)に対するストイックなまでの憎悪のほうに安堵をおぼえる。そこには「わたしもこれでいいのだ」という包容力や、共感の連鎖があった。


その感覚は、芥川賞受賞作の系譜でいうと田中慎弥さんの『共喰い』を読んだときに似ていた。憎悪の対象であるはずの父親といつの間にか同化していく自分自身を畏れると同時に受け容れるほかないやるせなさや高まり続ける慟哭は、その激しい暴力性と裏腹に僕をどこか安堵させた。


また、あかりが居酒屋の仕事もままならず「一生懸命やっていたのは知ってるけど、あのね、うちもね、お店なの」などという文句で「クビ」にされてしまう描写なんかにも、個人的な親近感がわく。そっと寄り添っていたくなるような「これは私の物語かもしれない」と思わせるような、そうした意味では大庭葉蔵(もちろん『人間失格』の)と出会ったあの日あの時のような感覚を『推し、燃ゆ』を読みながら再生できたと言っても過言ではない。


バイトやパートの世界観を最近の芥川賞受賞作品の系譜に並べると、やはり『むらさきのスカートの女』や『コンビニ人間』が出てくるのだが、その登場人物たちは自分の中に仕事上の明確なルーティンのようなものを確立していて、非常に「うまく」やっていた。ハイボールを濃い目にしてくれないかと注文をつけられたり、注文と会計とが同時に発生すると「あたしの体に記録されていたルート」が瓦解してしまうようなあかりとは、その点で大きく異なる。そしてもちろん、あかりがそのようにして感じる生きづらさにもまた、僕は自分自身の過去を投影してみたくなるのだ。


・・・・・


それを克服するかどうかの差異こそあれ、第164回芥川賞・直木賞を受賞した両作品は「ここではないどこか」を求めてしまうほどの「生きづらさ」を描く作品であった。そしてそのどちらの作品も、現在の生きづらさをそのまま描きだしているかのようなリアリティと再現性がある世界観をもっていた。そのように僕は結論づけたい。


もちろん『推し、燃ゆ』は現代の女子高生の生きづらさという、ダイレクトに私たちが共感しうる桎梏を描いた作品である。面白いのは『心淋し川』のそれもまた、非常に現代的な生きづらさであったということだ。離婚、アダルト・チルドレン、不倫、捨て子、痴呆、姦通、貧困、心の病、復讐、そして何よりも耐え難いほどの閉塞感・・・。江戸時代の心町の人々が抱えていたこれらの生きづらさは、今の時代を生きる私たちのそれと何ら変わらないのではないだろうか。


僕たちはコロナ禍を生きる昨今、控えめに言っても限界に近いところまできてしまっている。人間の不穏な面が全てあぶり出されるかのようなSNSの呪縛や、人と人とのやさしい繋がりが損なわれてしまった空漠に忍び入る閉塞感。そのどれもが僕たちを食いつぶし、滅ぼそうとしている。


そこに染み入る力として、対抗策として、そして希望として、今回の芥川賞・直木賞受賞作はあるのだと思う。僕たちの生きづらさを生きづらさとして克服する、あるいは寄り添う術としての文学の在り方が、この二作品には詰まっているのではないだろうか。


そうした意味で『推し、燃ゆ』と『心淋し川』は、文字通り今読まれるべき作品たちである。名選により掲げられる2冊を、ぜひともお薦めしたい。


※残念ながら(人気の為)出版社在庫がなく、私が管理している図書館「ぶん文Bun」にはまだ陳列できておりません・・・。個人的に小宮山文庫からお貸しすることはできますので、どうぞお声がけくださいね※


*最後に・・・文学で繋がる術として


ここまでお読みになってしまったあなた様は非常に奇特な方です。もう6,000字を超えてんだって。うぇ~笑。


「文学で繋がる術として」と題しましたが、結局今の僕たちにとって重要なのは「僕たちってひとりじゃないよね」という安堵なのだと思います。


昨今、仕事場でしか人と会わないという方も増えているのだと聞いております。完全リモートワークの場合は、本当にまったく人と会話というものをしないという可能性もあるのではないでしょうか。エッセンシャル・ワーカーの方におかれましては、感染リスク軽減のため仕事場と自宅の往復しかできない日々が続いているのだとか・・・。


実はそんなエッセンシャル・ワーカーの方が「今日この会に参加して良かった」とおっしゃる会が、オンラインにて過日開かれました。それは、私が住む椎葉村の有志読書会が催した「積読読書会」です。下記に当日のレビューのようなものを書いています。


積読を語ったら感極まった件


そこで村外からご参加いただいた医療職にお務めの方がおっしゃった「積読というテーマだから気軽に面白く参加できた」とか「仕事場との往復しかない日々、誰かと話したかった」というお言葉を、僕は忘れられません。忘れられないからこそ、続けなければならないと思うのです・・・。


第1回「積読読書会」をやります!


だから私はやります!小宮山主催としては第1回となる積読読書会。概要や申し込み方法など詳しくは↑の記事に書き留めておりますので、是非ともご照覧のうえご参加ください。


気楽で楽しく「久々にこんなに笑ったな~」みたいな会にできるといいなと思っています。今こそ、やわらかなつながりを築いていきたいな、なんて願っているところです。


下記にも積読読書会の情報を記載しておきますので、どうぞお気軽にご参加くださいね。それでは、また・・・。


・・・・・


●日時:2021年3月27日(土)21:00~22:00程度 ●場所:Google Meet(URLをご案内します) ●対象:世界中どなたでも(匿名可、顔出し無し可) ●料金:無料


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