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  • 執筆者の写真小宮山剛

東京~内から、外から~

10月である。11月1日の「本の日」を前にしたこの月のクリエイティブ司書の棚は、なんとしても充実させたいところである。ところがそもそも数の少ない小宮山の本棚では、小説ばかりの限られた蔵書ということで骨太さを表現できずにいた。


「図書の真髄を表せるおもしろい企画はないものか」


私はそんなことを考えながら、鴨川沿いを・・・いや宮崎県庁付近をぶらぶらとしていた。まだ昼間ではあったが、ガス燈のある風景はいいものである。


宮崎県庁付近のガス燈

ガス燈に飾り付けが・・・

そんな悠久を思いに抱きながら、僕は静岡や三島、はたまた馬車道、三宮で眺めたガス燈たちの揺らめく炎による一種の催眠に陥っていった。東京各所で見つけたガス燈が思い出をめぐればより催眠の度合いは深くなり、私はドグラ・マグラにかかったかのような夢遊病的歩行のままに足を回した。銀座、大井町、恵比寿、明大の前・・・。


私の足は、イングリット・バークマンよろしくガス燈の揺らめきに苛まれながら(注、夫から精神的な責め苦受けることの動揺をガス燈の火の揺らめきで表現した名作映画『ガス燈』を参照されたし。なおgaslightはガス燈を指すだけでなく、動詞として「~を精神的に追い詰める」などの意味をもつ)宮崎の地をさまよった。放浪者コミヤマ、行く先は知れずして絶えざる彷徨をすなる者也。あはれ也。


しかしなんたる僥倖か、目の前に突如として現れた小さな扉が小宮山の意識を覚醒させ、人間の人間たらしむる理性を目ざめさせしめた。その扉はまさに「キママブックス」、ずっと行ってみたかった本屋さんの扉であったのだ。おぉ、ガス燈の灯に深謝なるかな。おぉ、書物の深き闇に栄光あれ。


・・・僕はやおらその扉を開けた。中では店主さん(優しそうな大柄の男性)と常連さん(可愛らしい可憐な女性)がとても楽しそうに会話していたけれど、放浪の果てにたどり着いた僕のやつれた表情を見るや否や会話の波は瀬戸内の凪のように静かになってしまった。申し訳なく気まずいスルー。かぎりなく透明に近いブルー。ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー。


えぇいままよ!とズドンと店内に駆け込んだ僕は、そのこぢんまりとした店内で堂々たるウンコ座りをしながら本を渉猟した。古本というのはウンコ座りをしながら探すものだと、神保町だろうがケンブリッジ付近の古本屋だろうが相場は決まっている。背の高い書架の上段を閲覧するときにはウンコ座りのまま梯子を上らなくてはならない。「冗談でしょう?」とあなたは言うかもしれないけれど、これが本当なのだから古本探しはやめられない。


・・・なんだか文章が錯乱してきたのでここで結論に達すると、僕はここでとてもグッとくる本に出会い、10月のクリエイティブ司書の棚の内容を決めちまったのである。逆流的説明をお許しいただきたいのだけれど、僕がキママブックスさんにお邪魔したのは9月7日のことである。


以上のような経緯があって僕は、キママブックスさんで発見した一冊の本から啓示を受け、脳内本棚の有機的な繋がりを電撃的に連結させしめひとつの特集を構築した。


 

①『東京:1934~1993』桑原甲子雄


『東京:1934~1993』桑原甲子雄

僕が惹かれてやまない年「1969」を含むこの東京クロニクルたる写真集と、僕はキママブックスさんで出会ったのだ。そこにあるのは、東京という日本の夢と残骸の集積所―ソトモノの憧れと敗北―をみつめる「ふるさとの眼」であった。現代の上野にあたる地区で生まれた桑原甲子雄はあくまで東京をふるさととする人間として、シャッターをきり続けた(のだと、僕は思う)。


それは、博多に生まれながら東京に住まい、そこで爆発的刺激を拝受しまたある日には冷徹な敗北の残滓を舐めるに至った僕にとっては、あまりにも新鮮だった。


そうした個人的なひらめきと共に、東京から椎葉に移り住んだ今だからこそ僕のレンズに映りこむ新たなる光明があるようにも思われた。ふるさととしての東京と、都心としての東京。それらを比較することはまさに、東京という来年五輪をひかえる節目にある我々の一大都市に対して、内なる眼と外なる眼を双方の視座から向けることである。


椎葉にきた今だからこそ

東京五輪をひかえた今だからこそ

そして、素敵な本と本たちが結びついた今だからこそ


「東京~内から、外から~」


骨太かつ「へぇ~、こんな東京もあるんだ」という、どこか楽しい特集になっております。こんな風につながるから、本ってやめられません。


それではどうぞ、その他の結びついた本たちもご覧ください。


②『東京タワー:オカンとボクと、時々、オトン』リリー・フランキー


『東京タワー:オカンとボクと、時々、オトン』リリー・フランキー

これは「外から」の本。

福岡の炭鉱町から東京に出てきた「ボク」はもちろん作者と重ねられ、リリーさんのキャラクターとのギャップがまた感涙を呼ぶところである。映画ではオダギリ・ジョーさん、樹木希林さんの共演がたまらなかったですね。この映画を観るようにと母に勧めてから、今なお東京タワーに一緒に行けていないのは息子の息子たる姿なのか親孝行不足(何もできていないけれど・・・)なのか。この本の表紙を見かけるたびに「お母さん、元気かなぁ」と思わせられる力がある一冊。

なかでも、小説の終末に引用される「誰かの言葉の引用なのか、オカン自身の言葉なのかはわからない」という紙切れに書かれた文章の伝えるところは大なりである。


母親というのは無欲なものです
我が子がどんなに偉くなるよりも
どんなにお金持ちになるよりも
毎日元気でいてくれる事を
心の底から願います
どんなに高価な贈り物より
我が子の優しいひとことで
十分過ぎるほど倖せになれる
母親というものは
実に本当に無欲なものです
だから母親を泣かすのは
この世で一番いけないことなのです

『東京タワー:オカンとボクと、時々、オトン』



③『過去はいつも新しく、未来はつねに懐かしい』森山大道


『過去はいつも新しく、未来はつねに懐かしい』森山大道

これは「内から」の本。

森山大道自身は大阪生まれであるが、フェティッシュなほどに語りつくされる場所としての「新宿」を見つめる目はまさに内なる者としてのそれと言えよう。「’68年10・21、新宿の闇に未来を視た!」といういかにも'69年的キャッチフレーズが躍る表紙にも表れているとおり、ゴールデン街を中心としたエネルギッシュ・トーキョーの空気をこの本で味わうことができるかもしれない、できないかもしれない。


タイトルとした「過去はいつも新しく、未来はつねに懐かしい」というフレーズは、かつてどこかで、ふとぼくの目にとまった読み人知らずの言葉である。過去はいつも新しいという謂は、カメラマンであれば当然の日常感覚であり、未来がつねに懐かしいという謂も、きたるべき未知の時間や風景は、いま街角の片隅のそこここに、予兆となって浮遊しているという日頃のぼくの実感である。

(「※読み人」は原文ママ)

『過去はいつも新しく、未来はつねに懐かしい』


④『ノルウェイの森』村上春樹


『ノルウェイの森』村上春樹

これは「外から」の本。

親友を失うという高校時代を過ごしたワタナベが上京し、大学闘争時代の東京に滞留する。「生きる」ということばがどこか似つかわしくないほどに時が止まった感覚を覚えさせられるこの小説は、あまりにも有名であるとともに、あまりにも東京の東京たる所以の正鵠を射ている。

ここでは『ノルウェイの森』の引用ではなく、村上春樹がいかなる考えで同作を著したかを示したい。


何度も繰り返すようだけど、『ノルウェイの森』という作品で、僕は最初から最後まで、リアリズムの文体でリアリズムの話を書くという個人的実験をやったわけです。で、「ああ、大丈夫、これでもう書ける」と思ったから、あとがすごくやりやすくなった。リアリズムの文章でリアリズムの長編を一冊書けたら、それもベストセラーが書けたら、もう怖いものなしです(笑)。あとは好きにやりゃいい。

『みみずくは黄昏に飛びたつ』川上未映子


⑤『スペインの宇宙食』菊池成孔


『スペインの宇宙食』菊池成孔

これは「内から」の本。


菊池成孔自身は千葉・銚子の出身であるけれど、あまりに近接的に新宿をはじめとする「トーキョー」を見つめるその視座は限りなく内なる眼であると言っていいだろう。この一冊のおかげで僕のなかで意味をもつ東京が拡大し、僕が想像する新宿のパトスは増長した。新宿は今も、生きているのだ。間違いなく。

僕はそれからしばらくこの街で暮らした。初めて一人だけで東京に出るときに先ず向かった先が魔都新宿であり、それから山のような通過儀礼をこなしながら新宿に住み着いて行くのは、まだまだずっと先の話だ。
そしてその更にずっと先の1999年9月9日、僕の「ジャズ」が新宿で鳴らされる今年最後の機会がある。「ジャズ」とは何か?「新宿」とは何か?今、これを書いている部屋の向こうから、北野武の泣き声が聞こえている。彼の母親が昨日死んだ。高温の泣き声がブルージーだ。

『スペインの宇宙食』


⑥『横道世之介』吉田修一


『横道世之介』吉田修一

長崎から東京に出て大学生活をおくる世之介のはなし。意志のない若者にみえて大切なところ(あと、ちょっと意味不明なところ)に頑固な世之介の大学生活は、『ノルウェイの森』よりも安心しながら読み進められるだろう。映画は高良健吾と吉高由里子という良キャストで、哀しいはずなのに清々しい後味が残る気持ちのいい時間を過ごせるものだった。


「あんた、清志の所に遊びに行ったんでしょ?」
「行った」
「変わった様子なかったの?」
「絶望に慣れたいとか、そんなこと言ってた」
「ええ!?」
世之介も伝える部分がおかしい。
「まさか自殺とか」ないわよね……」
「なんで?」
「だって小説家になるんでしょ」
「お母さん、小説家がみんな自殺したら小説家いなくなっちゃうじゃん」
「そりゃ、そうだけど」

『横道世之介』


⑦『TOKYO 1969』立川直樹



これはもう、本当にすごいですよ。この本のおかげで僕は東京=新宿という意識をもつようになったし、ゴールデン街のことを大好きになった。TOKYOという概念そのものが新宿という街を中心として巡り、その静かなるメリー・ゴー・ラウンドを外から眺め、あるいは中心に座しながら延々と夜通し語り続けるかのような、そういうエッセイや対談が含まれた他にはない一冊。

言うまでもなくこれは「内から」の一冊なのだけれど、こうして東京の本を並べてみるとどうも、僕は「1969年新宿」という世界観に呪縛めいた愛着をもってしまっているんだなぁ。そこに、生きていさえしなかったというのに。

おそらくは僕の「かっこいい」のすべてが詰まった時代と場所がそこなのだと思う。「1969年新宿」ということばにすら、その形象と音韻にすらクールでデカダントでかつコリっとした芯の強さがあるように思われるから、不思議だ。もちろん渋谷の、喧騒と静寂が擦れ合う火花を浴びるのも好きだし、中目黒や恵比寿、三宿なんかの気取りがちなナイト・ムーヴメントも好ましい。というか、どちらかというと実際的に僕が入り浸っていたのはそうした方面だった。神田神保町も忘れてはいけない。「本を片手にカレー」とはよく言ったものだけれど、僕の場合は「プラトンにビール」だった。酩酊の最中にみたイデアの太陽は、そこまでまぶしくなかったように思う。

やれやれ、どんなに僕が東京を語ろうとしたところで、『Tokyo 1969』には敵うべくもないようだ。文字をつづる者としてこういう本に出会えることは、壊滅的に哀しく恍惚的に、悦ばしい。


「・・・何かミクスチャーしてる感覚って、今はもうみんなが「歌舞伎町面白いよ」とかって言うけど、当時から歌舞伎町ってちょっと不思議なとこってあったじゃないですか?
「ありましたね。空想的幻想的な地のような……。だから僕も知らずのうちにそこにたどり着いたっていうこともある。渋谷は僕にとって何もない街だった。渋谷の街を歩いてると何か下半身がぼやけちゃうんですよ。でも新宿だと下半身がしっかりと地に着いているっていうか、楽な感じになるんですね。すると下半身も下半身で僕の時間のようなものも、きちんと一緒に運んでくれてるようになる。土地にかなり近い場所というか、土地と対話してるという感じがあったりして、そんなとこが素敵だったんですよ。だから今でも新宿は全然怖くないし、歩けるし、つまり、新宿でしか歩いてるって感じを受けない。

『TOKYO 1969』


 

とまぁ、なんだかまるで「新宿特集」みたいになってしまいましたが(笑)、重厚な新宿群と「読んでみたかった」小説群が織り交ざった特集になっているかと思います。

「東京~内から、外から~」。ぜひ、お楽しみください。

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