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  • 執筆者の写真小宮山剛

桜桃忌によせて ~太宰治本~

更新日:2020年3月13日

1909年の6月19日、青森の金木に津島修治は生まれた。後の太宰治 - わたしの友、わたしの導き手、わたしの憎き道化、わたしの・・・概ね、すべて。


そして彼が玉川上水に入水し、ちょうど1週間後に遺体が発見されたのもまた6月19日であった。それを人は7日後の復活と呼び、その日は彼が晩年に著した作品「桜桃」にちなんで桜桃忌とされている。


……見すぼらしい女の、出産にからむ悲劇。それには、さまざまの形態があるだろう。その女の、死なねばならなかったわけは、それは、私(太宰)にもはっきりわからないけれども、とにかく、その女は、その夜半に玉川上水に飛び込む。新聞の都下版の片隅に小さく出る。身元不明。津島には何の罪も無い。帰宅すべき時間に、帰宅したのだ。どだい、津島は、あの女の事など覚えていない。そうして相変わらず、にこにこしながら家庭の事情幸福に全力を尽している。

『ヴィヨンの妻』太宰治


僕はこの文章を読むたびに、あぁ太宰は今も生きているのだと思う。気まずくて気まずくてたまのお酒に酔っぱらって、ようやく振り絞った勇気で道化をつとめている。それはどんな気持ちなのかしら。きっと僕にも、彼が鬼籍に入ったのと同じ38歳になったらわかるだろう。だから僕はその年がくるまで、もし許されるのならば、生きていようと思うのだ。


死のうと思っていた。ことしの正月、よそから着物を一反もらった。お年玉としてである。着物の布地は麻であった。鼠色の細かい縞目が織りこめられていた。これは夏に着る着物であろう。夏まで生きていようと思った。

「葉」太宰治


僕は例年、といってもここ2年のことだけれど、東京・三鷹の下連雀にある太宰治の墓に参っていた。墓参の人たちは雨傘をさし(2回ともに、ささやかな雨が降り続けていた)、ビールや煙草を墓前に供え、また墓標に刻まれた津島修治の文字に桜桃をつめていくものだから、その名は曇り淀んだ三鷹の空に挑戦するかのように、あるいは照れ笑いを隠し切れぬかのように、真っ赤だった。


この桜桃を墓標の文字につめるというのは、彼の師事した佐藤春夫や井伏鱒二らが始めたことであるらしい。冗談めいていて楽しい。太宰を偲ぶ日にはみんなが酒を呑んで、笑っていたそうだ。ただ、それを僕がやるというのはちょっと気が引けるもので、なぜなら僕だって笑われて笑われて強くなる道化の一人なのだから、そっと遠くのほうから人だかりを避けつつ、手をあわせるだけなのだった。


一体なんに?わからない。


桜桃忌の記述はもう、前に書いたブログにまかせるとしよう。問題は2019年の6月19日を過ぎたいま、僕がクリエイティブ司書として何をしなければならないか、ということだ。


わかっています。ほんとうは6月にはいってすぐにでも掲示すべきだった太宰本。『人間失格』風に言えば「遅れて、すみません」である。ごめんなさいである。五所川原市立図書館さんを中心に、全国各地の図書館さんが素晴らしい特集を展開している。なにせ生誕110周年である。これは、遅れてもかまわない。僕も何か、椎葉村のクリエイティブ司書として勝手に参戦すべきである。



クリエイティブ司書文庫の、太宰治特集

あれ、こんなに太宰本少なかったっけ(笑)

ご覧のとおり、少ない。


太宰治全集を買えるほど金があるかというと、そうではない。私は生涯貧相である。飯を食う金がないときは、ひたすらに安いウィスキーを飲む。そのウィスキーときたらカティサークだったらまだ良いほうで、ブラックボトルみたいに周りの酒好きは見向きもしないようなものばかりを飲む。もう、手のつけようがない。


だいいち『人間失格』が三冊もあるのはおかしいではないか。一冊などは表紙をこちら側に向けてあるが、映画『人間失格』の特別カバーで、生田斗真さんがかっこいいがためだけに買ったようなものである。もう、どこかで観た映画の主人公が何冊も何冊も『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を買っているのと似たようなものである。


おまけに椎葉村のおつるちゃんまでもがすっぽりと棚に収まってしまっている。もうスペースががら空きだったのである。しかしこの様子はなんだか窮屈そうでかわいそうで、この写真を撮ったあと、そっとこの本棚から引き戻しておいたのは、私に残されたわずかばかりの良心が痛んだからにほかならない。


それにしても、である。


なぜ堀辰雄が並んでいるのか。


太宰治特集に堀辰雄が並んでいることを「手抜きだ」「並べるものがなかったんだろう」「作風がぜんぜん違う作家を並べるとは無知もはなはだしい」「欺瞞だ」「似非だ」「インチキだ」「You're a phony」、そのように切り捨てることは簡単である。しかしこの太宰治、堀辰雄というあまり関係のないように見える、あるいはその生き方から文章感まで、ときに「真逆」と称されるこの二人を並べることは、あるひとつの真理をつくものである。


そう、本は有機的なつながりをもっている


堀辰雄は1904-1953年を生きた作家である。かくいう太宰は1909-1948年と堀よりも10年間短い生涯であったが、戦前から戦後にかけての時代を生きたという粗い範疇をよしとするのであればひとつの共通項が生まれる。また、二人とも東京帝国大学の学生であった(太宰は仏文科中退、堀は国文科)。


そんな共通項で二人の作家の本を結び付けてよいはずはない。だいいち、戦前にほとんどの作品を発表し終え結核のため戦後は筆をとることがままならなかった堀と、戦後晩年にこそその集大成といえる鬼神ぶりを発揮した太宰とでは、戦火のもと刺激された文章の鋭敏さが格差的に異なる(と、いうことはよく言われる)。


生き方はどうだろうか。田部シメ子とのカルモチン自殺未遂ではついに死にきれなかっただけでなく、女は死に太宰は生きた。太宰は山崎富栄との入水自殺にいたるまで、女を恐れ、女のいる世界におびえ続けてきた。彼の未完小説『グッド・バイ』に描かれたのはまさにその恐れの集大成であり、そうでありながら女というものから逃れられぬ苦しみのやるせなさであった。


一方で堀は『美しい村』や『風立ちぬ』に表れるように、軽井沢で油絵を描いている矢野綾子に心をよせた。同じく胸を病んでいた二人は富士見高原療養所に入院し、女は死に堀は生きた。彼は人生の最後、結局のところ妻に看取られながら死したのだが、ある意味で「人生のなかに死をもって別れた女がいる」ということは太宰との共通項とも言える。


しかし太宰は「女のいない世界」を希求し女の恐ろしさを書き続けた(「女生徒」や『斜陽』はそうじゃないかもしれないけれど)のに対し、堀の文学では女の美しさが疑うことなく描かれている。


ではなぜ、堀辰雄なのか。太宰と堀を結びつけるのは、その子弟関係と憧れ、偶然の出会いである。


堀辰雄は軽井沢での療養時に『性に目覚める頃』などを著した室生犀星と出会う。室生の引き合わせで堀は芥川に会い子弟関係のもと師事した。芥川の自殺は堀の『聖家族』執筆へとつながっている。


太宰はというと、芥川賞をめぐる佐藤春夫とのやりとりなどはあまりにも有名なほどだが、ノート一面に芥川の名を書き連ねるなど、あるいは偶像のように芥川を崇拝していた。そのひたむきとも言える愛が、彼の生涯を決したのかもしれない。


同じ時代を生き、同じ作家・芥川に師事、憧れた作家たちの作風がこんなにも違うということは、それぞれ読み比べていて大変面白い。とくに太宰の女への怖れと西洋古典へのオマージュと、堀の女への愛と日本王宮文学に影響された作風を対比させると、なんだかうまく対をなしているようで、あわせ読みをしたくなる。


そして、彼らは人生でたった一度だけ出会っていたと言われている。それは1943年、太宰の死の5年前のことだった。太宰は師事する井伏と共に、徳田秋聲の葬儀へ向かっていた。そのとき乗った電車のなかでたまたま乗り合わせたのが堀なのであった。太宰はこのときに堀のことを、案外好男子だと褒めていたそうな。


つまり僕は太宰と堀を並べることで、ほとんど同じ時代を生きながら、女を恐れた者と女を愛することができた者と、戦後にこそ本領を発揮した者と病に倒れ筆を執りえなかった者と、あるいは芥川を熱狂的かつ盲信的に信仰した者と実際的に師事した者と、そういった文脈の対比を楽しむことができるのではないかと思っている。そうしてこの二人のテイストが異なる作風を敢えて並べ違いを際立たせることで、ではその周辺の作家をという、さらなる有機的なつながりへの興味喚起を期待するものである。たとえば堀が師事した室生犀星を読んでもいいし、堀と在学時に知遇を得ていた中村真一郎に進んでもいい。


あるいはこういうつながりはこじつけにすぎないのかもしれない。ただひとつ言えることは、本と本とをつなげていくうちにあっと驚くセレンディピティが偶発的に表れる喜び。これに勝るものはそうそうないということである。本は、本が並ぶところはすべて、有機的につながっている。

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