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  • 執筆者の写真小宮山剛

日本人の心

最近「前は読まなかったよなぁ」という小説との出会いがありましたので、冒頭は「新しい本との出会い方」について書いていきたいと思います。それはつまるところデジタル時代ならではの有機的な本との連なりというところでしょうか・・・。僕が使っている新しい本への道を検索するWEB手法と、実際に起こった新しい本との出会いをご紹介いたします。


新しい本との出会い方

僕がこの度ふだん読まないような本を読むことになったきっかけは「Googleアラート」でした。これはGoogleの自動サーチングサービスで、任意の検索ワードに対する自動検索を任意の頻度で行ってくれるという優れものです。


この機能を使い始めたのは新聞記者をしていたとき。毎日毎日「トッパー」とか「CPC」とか「ポリエチレン」とか「ADNOC」とか検索していると「自動化したいなぁ」と当然のように思うものです。今思えば、何を毎日無駄なことをやっていたのかと思います。検索ワードから、私がどんな業界の新聞記者をしていのか割れてしまうかもしれませんね・・・。


私がGoogleアラートに登録しているのは「椎葉村」や「地域おこし協力隊」はもちろんのこと「慶應」や「小宮山」、あるいは「村上春樹」とかそういうものです。これらはどちらかというと「世界を深める」検索ワードですね。クローズドな検索ワードと言えるかもしれません。こうしたワードを設定するのは、自分に関与ある話題や、興味が「元々ある」話題に関するニュースを逃さないためです。


Amazonでお買い物したら必ず「あなたへのおすすめ」が出てきますが、こうしたAIサジェストはWEBマーケティングの得意とするところです。いかに個人に特化し、個人による個人のための周期と傾向を深化させるか。これがWEBの得意とするところです。


 

ただし僕が「新しい本との出会い方」を考えながらWEBを使う時、もといGoogleアラートを使うとき、僕はよりブロードな方向性へと舵をきるのです。「世界を広げる」検索ワード。オープンな検索ワードこそ、WEBで新しい世界と出会うためのカギとなるのです。


僕はGoogleアラートに「文学賞」という検索項目を用意しています。もちろんクローズドな検索ワードとして「直木賞」や「芥川賞」、「ブッカー賞」なども用意していますが、僕にとって大切なのは「文学賞」というワードを用いた検索です。


「文学賞」という検索から起こること

それは、今までに僕が知らなかった様々な「文学賞」を受賞した本たちと新たに出会えるということです。日本全国には様々な地域文学賞があり、新人賞があります。それらすべてを毎日手検索で探し続けるのは愚かというものですが、Googleアラートを設定しておけば、(僕の場合は)毎日16時に当日発表された「文学賞」というワードを含むWEBニュースが自動的に届けられます。そしてそこには、僕が今までに知らなかった文学賞、僕が今までに知らなかった作家さんや本たちがあふれているのです。僕はなかなか効率的な方法で、新しい本と出会っているのです。

 

他にも「図書館」なんかで検索ワードを設定しておくと、今までに知らなかった図書館の情報がたくさん入ってきます。新設図書館の情報や、他の自治体の議会で図書館の話題が取り上げられた際などもキャッチアップすることができます。


・・・そんなこんなで僕が出会った「前は読まなかったよなぁ」という本はこちらです。


今までの僕だったら、もしかすると本屋でみても見過ごしてしまっていたかもしれません。だいたいこの『母さんは料理がへたすぎる』が「文学賞」のワードに引っかかったのは、ポプラ社さんが初めて開催した「おいしい文学賞」という賞を受賞したからだったのです。これまでになかった文学賞の情報になんて、僕はきっとGoogleアラートがなければ気づきませんでした。


古典が好きで、海外文学が好きな僕。小説以外に読むとしたら自然との共生や哲学書が多い僕。『母さんは料理がへたすぎる』という作品は、そんな僕の眼にとって間違いなく選出外だったでしょう。しかし今回はGoogleアラートに「文学賞」という設定をしていたおかげで、「Googleアラートのサジェスト」→「『おいしい文学賞』のニュース読む」→「ニュースを僕のTwitterでつぶやく」→「作者の白石睦月さんからご反応」→「なんだか買ってみたいなぁ」・・・という素敵な連鎖が起きたのです。


まさに、自分だけの読書傾向から抜け出す瞬間でした。


『母さんは料理がへたすぎる』は思いのほかシリアスな問題を内包した小説であり、それが美味しい料理というヴェールとやさしい文章に包まれていた、言うまでもなくおもしろい小説であったのです。僕は自分一人で好きな本を探しているだけでは決して出会うことがなかった本と、新しい出会いを果たしたのです。

 

さて、これを図書館に置き換えるとどうでしょう。


行きつけの図書館で、同じ本棚ばかりに向かっていないでしょうか?「私のお気に入りの棚は913!」みたいな人だっているかも。・・・いませんか?(笑)


実は、とくに小説の配架にはいつも疑問を抱いていました。よく作家名をアイウエオ順に並べて配架していますが(よくても出版社別)、これだと自分の好きな作家以外に目がいかない。太宰治を好きな人は、檀一雄にこそ気づくかもしれないが、『山椒魚』には気づくことがないまま書架を通り過ぎていってしまうかもしれない・・・。


同時代を生きた小説家たちの関連を本棚で表現すること。それでいて別の時代の作家にも目を振り向けられるよう本棚という空間で表現すること。そんなことができればいいのになぁ、とかねがね思っていました。

 

・・・まぁ小説の話はさておき(おくんかい!)、実は椎葉村の図書館「ぶん文Bun」での独自分類もまた「世界を広げる」検索ワードのような役割なのです。前回のブログで紹介すると約束した分類「日本人の心」もまた、今回私が恩恵を受けたような「読み手の眠っている興味を呼び覚ます」仕掛けなのです。


椎葉村独自分類「日本人の心」。字が曲がって見える人は、心が曲がってます(笑)

日本の図書館で「日本の本」を探そうとすると、それは様々な本棚に散らばってしまっています。それは日本のほとんどの図書館が、日本十進分類法(NDC)にしたがった分類・配架をしているからです。(もちろん、大規模図書館とか大学図書館のように学問的で系統立てられた配架が必要な場合には、NDCは極めて優れた分類法だと思います)


一方で椎葉村の図書館「ぶん文Bun」の場合、「日本人の心」という棚には「日本」をキーワードに収集された本がずらりと並びます(並ぶというか・・・マァ、書架の全貌をお楽しみにナスッテください)。


いい本を、テーマに引き寄せるように集める。集まった本を俯瞰し、再びテーマを洗練させる。そんな作業のくり返しから私たちのテーマ配架は構築されているのです。


そうして「日本人の心」に集められた図書をみると「こりゃNDCにしたがっちゃいられませんね(笑)」と苦笑するばかり。集まった図書をNDCに照らしてみると、319.1021、210.08、911.148、791.914・・・と、リストの上から順番に並べているだけなのに全然NDC順の配列に収まる気配がありません。


ところが実際に集まっている本たちをみてみるとなかなかのものです。棚内部での有機的なつながりはもちろん、飛躍的あるいは連鎖的に連なることを想定して隣に配される棚との連動までもがダイナミックに見えてきてしまうくらいに、ある種の独立的かつ連動的な、内省的かつ外交的な、内に秘めたる力とシナジーとが同時にあふれ出るような本たちばかりなのです。


「本気で本を集めると、こんな世界がみえてくるのか」という感興が沸き起こりました。そうしてその棚はまさしく僕が『母さんは料理がへたすぎる』に出会うまでの経緯と同じような、「前は読まなかったよなぁ」との出会いの連鎖を呼び込む装置となっているのです。


本来は隣あうはずのなかった本たちが、NDCを前提とするのではなく本と本とが生む立体的かつ有機的な連鎖を前提として集められることで、絡み合いむすびつきあい、数々のセレンディピティが図書空間を輝かせているのです。


 

冒頭お話ししたGoogleアラートのようなデジタルツールも、使いようによっては僕たちの読書体験を広げてくれます。しかしそれには、ある程度のデジタルリテラシーと仕込み(そして慣れ)が必要です。


ぶん文Bunの図書空間には、そういう新しい出会いを生む仕込みをわんさか仕掛けてあります。それは本と本との出会いであり、自分の興味を拓いていく楽しさであり、何よりも「そこに居る人が素敵に映る」仕掛けである。そんな風に考えています。


 

この記事を書いている途中に東京都知事が会見を行い、新型コロナウィルスに対する緊急措置を行う予定である旨が発表されました。4月7日の政府発表を待たずして都民への説明に急を要したということは、事態の悪化は待ったなしということでしょう。


この秘境・椎葉村の地から何ができるのか。もし僕が2年前と同じく東京に住んでいたら・・・という恐怖をかき消すように、そんなことを考えています。


無理なく、無知なく、ムキにならず。夜に鳴く蛙たちの叫びは誰に対してのものかと案じつつ、一人の人間としての限界と可能性を闘わせてみるのです。



椎葉村独自分類「時代の波」と「未来の夢」

先の大戦のあと、出版業界はたまさかにぎわったという。人々は心に空いた隙間をふさぐかのように、本を買い求めたのだ。


本を手ずから届けることが、買いに行くことが難しいというのならば、電子版だって音声版だっていいじゃないか。僕たちはものがたりに囲まれることができる。こんな世の中にこそ、時間を忘れさせてくれるほどに美しいものがたりと出会う場所があるべきだと思う。もしそれがリアルな場所でないのであれば、可能なかぎりそれをデジタルで立ち顕すことができればと願う。


・・・デジタルツールから書き始め、リアルの本棚を核心としたこの文章は、いつの間にか昨今の災禍を憂いながらも「デジタル×リアル」なものがたりのセレンディピティについて思いを巡らせる瞑想(迷走)の場となってしまった。


次回からも椎葉村「ぶん文Bun」のテーマ配架についてふれながら、こうして誰ともキスも握手も抱擁もつばぜり合いもせずに語ることのできる絶好の場(夜中に独りで書いてるからな!!!)で、僕の好きなものがたりを紹介していこうと思う。もしそれがあなたの好きと重なるようであれば、それは宇宙空間における濃厚な視線の交錯にも似た、冷ややかな情熱となるだろう。


・・・このままコロナウィルスが蔓延し続けたら、夕暮れのホームで別れを惜しむ高校生たちが精いっぱいの愛情を交わすことができなくなってしまうじゃないか。そんなのは、おじさん嫌だよ(もうすぐ30さい)。

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