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  • 執筆者の写真小宮山剛

太陽は東からも昇るし、あるときには西からも昇るのだ

椎葉村へ初めて来た日から2年が過ぎていた。僕が椎葉の土をはじめて踏んだのは2018年の12月25日で、2020年の今思い返せば、その年は気温もそこまで低くなく、昨今の感染症騒ぎのようなこともなくて、とても温和な時代と言えたのではないかと思う。たった2年で「時代」ということばが出てきてしまうほどに、僕にとって、そして世間でくらすほとんどの人にとって、多くのものごとの事情が変わってしまったのではないだろうか。その多くは歓迎されざる方向へと移り進んでいってしまったのだろうと推察する一方で、この単純な観測が的外れであることを祈っている。


12月25日という日を意識しているつもりでいながら、2020年の12月25日に僕は何の感興も抱かなかった。その日はふとした瞬間に過ぎ去り、初めての桜の芽吹きに後から気づくように、あるいは最後の花びらが散る瞬間を見る人はそうそういないように、いざ意識してみたときにはもう遅いという類の、取り返しのつかない、けれどあえて取り返すほどのものでもないような時の経過の一種だった。


この2年で多くのものごとが変わってしまった。ほんとうに多くのものごとが変わり、ものがたりは全く異なる様相をはらみはじめている。これがもし一冊の本であるとするならば読者が目を離しているすきに急いで表紙を取り換えないといけないくらいの大胆な変化をはらみながら、全体としてひとまとまりになっているはずの辻褄というものを引き裂きうるほどに大きく残酷な急展開が僕をどこか見知らぬ次元へと運ぼうとしている。春夏秋冬とそれぞれに見知らぬ出来事があり、それぞれの季節で見知らぬ人々が現れた。僕はそのすべての事象と人物に対して、ひとつひとつ丁寧なお辞儀をしてまわり、そのいくらかを理解し、そのほとんどについては理解することのないまま放逸した。そうせざるを得なかった。


よく「この1年は実りあるものでしたか?」と聞く人がある。そう聞くひとは往々にして白い歯を見せながら笑っていて、言葉の裏側にあるメッセージとして「私のほうは実ってます。それはもう、バオバブの実みたいに」と言いたい心情が透けて見える。僕はそういうことを聞かれてしまうと「まぁ、それなりに」とか「去年と同じですね、まったく」とか、そんな答えしか返すことができなくなってしまう。おそらくは質問者のほうもそういう平板な答えが返ってくるであろうことを予期していて「そうですか。それは何より。平凡が一番大事ですよ。平凡というものは人類が誇るべき第一の美徳です。ところで私のほうは・・・」と早々に自分の実りある1年の話を切り出したがっているのだろう。


そんな面倒に巻き込まれるのはまっぴらである。それはもう「あとで資料をメールで送るね」という伝達をするためだけの電話と等しくまっぴらである。まったくもって無駄である。僕はそんな無駄な機会に巻き込まれたくないので、早々に自分で自分に問いかけることにする。


「この1年は実りあるものだったかい、クリエィティブ司書小宮山くん。えぇ?」


答えは「大いに実りました」である。それはもう、バカでかい象の糞くらいに実りのある年だった。世界の多くが悲しみに包まれる中この年を祝うということは戦場の真ん中でクリスマスを祝うようなことかもしれないけれど、おそらくはボウイや坂本龍一もそうしたように、僕は僕なりの2020年を大いに祝いたいと思う。そして影ながら願うことには、多くの人にとってもこの一年が、祝いたいものであったことを祈っている。


*****


1月から7月半ばまで・・・すなわち椎葉村交流拠点施設Katerie椎葉村図書館「ぶん文Bun」のオープンまで、僕はほとんど仕事にかかりっきりだった。だから祝福すべきものごとの半分は仕事によるコンテンツで埋められてしかるべきであり、そしてその仕事はまさに、祝福されるべきものであると思う。それは手抜きのない、懇切な仕事だった。


2013年の4月に静岡ガスへ入社して以来僕は一応の「社会人」として生きてきたわけだけれど、ここまで自分に自負と責任を背負わせて仕事にあたったことはない。そのことは「思う」ではなくて、強く断言できる。地域おこし協力隊という立場をとりながら、僕は「クリエイティブ司書」という広告業界の人からしたら「なに言っちゃってんの?」という肩書を強く意識しながら、まさに創造的に仕事を続けてきたのだ。


―――「クリエイティブ」———


Creationといえば神による天地創造であるが、僕が2019年の4月に着任した当初はちょうど神様が世界創造の2日目くらいまでを頑張ったあとみたいな状況が据えられていた。椎葉村交流拠点施設となるべき土地は定まり、建築図面は固まり、用途としての「テレワーク」「ファブラボ機能」「クッキングラボ」「村内外の交流」「子そだて支援」そして「図書スペース」という主要な項目は決まっていた。基本的な方針は定まっていたわけだ。


僕はそこへ、コンセプトメイクと図書館づくりの具体的な方策づくりというかたちで心血を注いだ。日本中の事例を知るために2019年の8月までに30館ほどの図書館をめぐった(旅の様子はこちらのブログで)ことが懐かしく思い出され、その旅路の結果として図書館と地域をむすぶ協議会の太田剛さんと出会えたことがついさっきのように思い出される。そうだ、僕の仕事はまだ始まったばかりなのだ。


ありきたりなものを創るつもりはなかった。だからこそ今のぶん文Bunがあるし、僕にとっての2020年はバカでかい象の糞ほどに実りあるものだった。今日ここで多くの字数をその成果に費やすつもりはない。仕事の結果については、2020年に僕が書き溜めた以下のブログたちを参照していただきたい。今日僕は、いかんせんもう3,500字を費やしてしまっているのだ。


そしてそのことはいやしくも、あなたがここ数分のあいだ、何の内容もない文字を3,500字も読み過ごしてきたということを示唆している・・・。



\クリエィティブ司書の仕事に係る2020年のブログたち/
















(どれが「特に読んでほしい」記事かは文字のデカさで判断してね♡)


*****


えっ、こんなに記事書いとったん!?暇なの!?


・・・なんてことを思ってはいけない。決していけない。それは、生まれたばかりの嬰児に「YouTuberになるなんて無理だ、クソが」と叫びつけるくらいにいけない。That's really damn. である。


はっきり言っておくが、僕のこのブログは極めて重要だ。取材にいらっしゃる方はこのブログを御調べになることが多い。誠に頭が下がるお手間であり、記者さんという方は情報収集の鬼であると思う。それと同時に「よくこんな変態ブログを読んで取材をやめようと思わないな」とも思う。いえ、やめろと言ってるわけじゃないんです取材に来てください本当にお願い申し上げますやめないでください。


この小宮山個人の「雨読につぐ雨読」ブログは今述べた通りもちろん大切だし、僕の場合はKaterieとぶん文Bunのあらゆるメディアを企画・運営担当者としてまわしている。


・・・Katerieのメディア・・・






・・・ぶん文Bunのメディア・・・




(ちなみにKaterieのInstagramは他のスタッフさんに、「コハチローのささやき」はコハチロー本人に運用をお任せしています)


・・・とまあ、脳が起きている間は常に何か発信しているという状態である。もちろん小宮山剛個人のTwitterやInstagram、Facebookもあるわけで、それぞれが連関しつつバランスよく成長していくように目配せしながら運用を継続しなければならないというわけだ。


こういう発信業務が好きでどんちゃんやれるということも、僕の「クリエィティブ司書」たる所以だとは思うけれど、これはあくまで業務の一端に過ぎない。Katerie/ぶん文Bunの視察対応は僕が行わなければならない場合が多い(ぶん文Bunの図書カウンターには、僕が不在時にもお渡し可能なように幾らかの名刺を置いてある)し、選書では毎月・年間でたくさん本を買わせてもらっている(これは本当に椎葉村の素晴らしいところ、深謝します)し、どんな資料があるかとか「~な感じの本ありますか?」という質問に対応もする(レファレンスの心得はこちらのブログに)し、本棚の整理や新しい本のシステム登録やバーコード貼りのチェックがあり、寄贈の申し入れを受けた際の対応がありテレビ・ラジオ・雑誌・新聞取材の対応があり、果てはチョークアートやトイレ掃除まである。これほどやって、2020年が実らないはずがない。


「図書館司書」というとカウンターに座っていて、ともすれば暇なときに自分の好きな本を開いていてたまにホコリはたきで本棚をパタパタして子どもと遊んでる給料の低い暇な職業・・・とかいうイメージがあるかもしれないが、また実際にそんな人もいるのかもしれないが、残念ながら現実は(すくなくともぶん文Bunでは)異なる。むちゃくちゃに忙しいし、新しい情報収集(WEB、書籍、新聞、テレビ)と経験的情報収集(論文、学問的教養)を折り合わせながら日々コトに当たらないとやっていけない。


たとえば「中村哲さんの本はありますか?」と言われて「誰ですか?俺の友達にそんな名前のやつがいますけど・・・」などと返答してはいけないわけである。


それは鼻高々の「ライブラリアンシップ」とかいうなんだか鼻じらんでしまうものではなくて、もっと純粋で単純な「カッコよさを保つ」とでも言うべきものである。本に囲まれて仕事をしている人が「なんかあまり凄くない」感じだと、子どもたち大人たちに「本ばかり読んでても使えねぇんじゃしょうがないな」と思われるじゃないですか。だからこそ僕はクリエィティブ司書として、文章も書かなくちゃいけないし、べしゃりも上手くなくちゃいけないし、できることなら菅田将暉ばりのイケメンでなくては、おい誰だいま笑ったのは。


・・・つまりは、この一年僕は常に新しいことを実行に移しながらも、今までの苦難と経験を活かし(文章、広報発信、べしゃり、学問的教養・・・そのどれもが大学時代や前職で手に入れたものと言っても良い)ながら頑張ってきました、ということだ。新しく奇抜であるだけでなく、芯のあるやさしい事業を続けていきたい。そう思うからこそ、僕はこれからも「先々に活きる経験」を積み続けなければならない。


*****


ここまで書きつけたところで僕は大きな不安に襲われる。「いつから『先々』の話なんて始めたんだっけ」と。いつから僕たちは「将来どうするの?」とばかり尋ねられ続けてきたのだろう。「実りある一年でしたか?」という問いは、人生のいつの時点からか「で、来年はどうするんですか?」という残酷な問いとしての意味しかなさなくなっている。そう問いかける人には常にデイ・ライトたる未来の光明が見えているのだろうか。僕には、一寸先の未来すら見えない。


僕はいつだって、まるで手漕ぎボートを漕いでいるときみたいに、先へ先へと進みつつも進行方向に対して後ろを向いて生きている。背後に茫洋として広がる未来に対しては背を向けたまま、慈しむべき過去を見つめながらただ淡々と全身を使いオールを繰るのだ。


逆に問いたいのだけれど、こういう生き方じゃない人がいるとでも言うのだろうか。豪華客船の舳先から望遠鏡で遠くを見渡すみたいに未来のことを見据えている人がいるとでもいうのだろうか。もしそんな人がいるとすれば、きっとすぐ近くにある流氷を見落としそいつに乗り上げ座礁してしまうことだろう。


いつだって未来は不確かで残酷で、過去はやさしく美しい。


そうなのだ。僕はこのブログを書きだすとき、まさか「先々」の話なんてするつもりはなかった。僕は2020年という既に経験され定まったものとしてのやさしく美しい過去の話をしたかったのだ。そこには辛いものがあり不満に思うこともあったけれど(たとえば、禁煙せざるを得なくなったとか)、それでもやはり「既に経験してしまった」ことは、それ以上にも以下にもならないという確定性の美徳を備えている。そうした類のものにはなんらかのコープ(対処)を施すことができるし、的が止まっている以上、あとはよく狙い撃ち落とすだけでいい。過去は動かないし、動かないからこそ美しい。


だからこそ本題に戻ろう。僕はいまからようやく、皆さんお待ちかねの「振り返り」に入ることとする。


こっからは写真が中心だ。ここまで読み下してきた皆さん、お気づきだろうか。とある行を縦読みすると、ある文字列になっていることに・・・なんてこともないので、そのまま僕の2020年振り返りをご覧いただきたいと思う。ここまで長くなってしまったことを申し訳なく思うし、まさかそんな人はいないと思うけれど、一字一句読んだ方は本当にすごいと思う。「す、すごいね」と若干引き気味に申し上げたいと思う。そして心から感謝しているし、もっとまともなことに文章を捧げられないものかともどかしく思っている内心を吐露したい。僕はいつも、いったい何を書きたいかわからないままに書いてしまっていることが多いのだ。


・・・そうだ、写真だ。写真に入ろう。苦しいことなどはない。写真さえあれば、そこにある過去が動くことはない。そしてそれと同時に、過去はいつでも新しい。


*****


\小宮山剛の2020年振り返り写真集/


・・・1月・・・

2020年も、椎葉村地域おこし協力隊として過ごすことができた。願わくば2021年も。


1月時点の椎葉村交流拠点施設Katerieは、まだ骨組みとガルバリウム鋼板の屋根ができあがったばかり。「間に合うのか?」と思ってました(笑)


1月はまだまだこんな飲み会もできましたね。またやりたい・・・!


1月のベストショット。327号、東郷手前あたりにて。


・・・2月・・・


お気に入りの写真がとある賞をいただいて嬉しかった。


出初式で優勝したときの様子が広報しいばの表紙で嬉しかった。


東京の友達(うち二人初対面)たちが椎葉へ遊びに来てくれて嬉しかった。


これくらい嬉しかった。@鍋ケ滝


まだ静岡へも行けたので、河津桜をみた!嬉しい!!


静岡へ行った時にはまさるさんにも会えた。


そうだ、この一年は大久保のヒノキさんに励まされた一年だった。


YAMAPさんと初対面。末永く椎葉とのお付き合いのほどお願い申し上げます。


図書館・編集ワークショップを生涯学習フェスティバルで実施。このときはまだ椎葉村図書館「ぶん文Bun」の中身が出来上がってなくて、理論を実践に移すことができるのか不安が大きかった。→ できた。


・・・3月・・・


図書館司書資格を近畿大学(通信)で取得した。


とても大切な日があった。この時計は、年末に故障する(笑)


ぶん文Bunに本棚が運び込まれ、着々と組み上げられていく。まだ、どれほどすごいものを創っているのかという実感はない。


ぶん文Bunに命が吹き込まれはじめた。3月には本も入り、いよいよという感じ。


・・・4月・・・


コロナ対策のアルコール消毒・・・ではなく、おいしくいただいた。


はやめの鯉のぼりがKaterieに舞っていた。


KaterieのものづくりLabでつくった樹脂マスクをいただいた。


椎葉の自然が生き生きしていた。


地域おこし協力隊のメンバーが新しくなった。


ぶん文Bunの場所づくりも佳境となってきた。


・・・5月・・・


上椎葉ダム閣下に釣り糸を垂らさせていただいた。


ぶん文Bunのキャラクター「コハチロー」の存在が明るみに出てきた。元からいたらしい。


椎葉の景色はいつでもきれいだった。


静岡~椎葉という引越しがあったので、密にならない場所として選んだ休憩場所は琵琶湖だった。


・・・6月・・・


ひえつの里キャンプ場(現「BASE CAMP Shiiba」)にて猪肉を焼いていた。


Twitterを通じて湖民さんと繋がり始めた。イトノさん宅で記念撮影。


本棚を「椎葉ってこんな場所だよな」「椎葉にこうなってほしい」と思いながら組み始める。「意志あるところ本あり」は、2020年のキーワードだ。


そして、本は見た目だけでも美しいと知った。


・・・7月・・・


7月は、とても多くの雨が降った。


全国から、Katerie開館を祝っていただいた。


本は並べるだけでなく積むためのものでもあると知った。積読。


開館前夜、夜の図書館の美しさを知った。「#図書館の絶景」という言葉が出てきた。


7月17日深夜、なんとかKaterie・ぶん文Bunの開館準備が整った。


7月18日、無事に開館セレモニーが催された。それは感染症の影響に鑑みた縮小されたかたちのこじんまりとしたものだったけれど、メジャー新聞各社の宮崎支局が来て、テレビ局が来て、多くの人に歓迎された開館であることが十分にわかる一日だった。


さっそく、ワインを飲みながらの読書会が催された。


・・・8月・・・


夏の夜のKaterieも素敵だった。


たまに、九州の絶景を狩りにいった。


図書館の絶景は留まることを知らない。


椎葉村花火大会の前、椎葉の絶景を拝むことができた。


SF特集を組んだ。


林遣都さん推し棚が完成した。林遣都さんは椎葉が舞台の映画『しゃぼん玉』で主演を務めておられて、僕が椎葉への移住を決意する最後のひと押しをくれた人である。


最初は「影のある感じが上手いなぁ」くらいの気持ちで観ていたのだが、スマ(市原悦子)さんとのやりとりなんかを何度かみるうちにただならぬ力強さのある演技なのではないかと思い始めた。そしてそれは、KaterieのTwitterなどを通じて湖民さんたちとお話しするなかで確信へと変わる。彼は・・・林遣都は、稀代の役者だ。


その確信は、Netflix版の『火花』を観たときに激震へと変わった。かねてから又吉直樹さんの第一級作品は『火花』でなく『劇場』だと言い続けてきたのだが、林遣都さんの演じる徳永は原作の徳永を飛び越えた存在としての新たな境地を切り開いていた。神谷さんを演ずる波岡さんとの相乗効果もあり、今では林遣都さんの出演作のうち僕が最も愛するドラマとなった『火花』は、僕の脳裏で今も煌々と輝き続けている。


セクシーな猫にあった。


今でもこの猫は愛そうを振りまいているだろうか。


・・・9月・・・


正直に言ってこのことを書くかどうかずいぶん迷ったけれど、9月には台風10号が椎葉を襲った。全国の新聞やニュースで取り沙汰されたとおり、本当に多くの悲しみが長いあいだ村の空気を捕まえていた。そしてこのことは過去の一部分として語られるべきではなく、今もなお少なからぬ色濃さで存在する同時進行性のことがらの一つとして語られなければならないだろう。


ニュース等では椎葉村消防団の活動がたびたび取り上げられていたけれど、僕もその一人として微力ながら可能なかぎりの活動をした。図書館の仕事と両立するなかで時間のやりくりが難しいこともあり、時には消防服を着たまま本棚の整理をしていることもあった。きっと日本全国で、消防服のまま図書館仕事をしてしまった人はいないのではないだろうかと思う。


ともかく僕も消防団の一員として、土砂や瓦礫の撤去にあたり川の捜索に加わった。単に水が冷たいとか、シャベルや鍬が重いとか、そんな理由では説明できない疲労感と重苦しさが僕を襲った。おそらくは僕だけでなく、活動中の全員が異様なまでの疲労感に見舞われていたのではないだろうか。


それは行方不明者が見つからないという不安や徒労感が原因というだけではなく、村の中のの近しい人たちが流されてしまったという取り返しのつかない現実と、巻き戻せない時間と、そして今ここに滞留し続けて過ぎ去ることのない悲しみと、そんなあれやこれやがないまぜになってどうしようもなくなってしまった沈滞感が包括的に村そのものを包み込んでしまっていたのだと思う。


そしてそれは、いつもテレビやPC、スマートフォンの画面の向こう側にあった「被災地」が、自らの足元に大きすぎる開口を見せた瞬間だった。新聞やテレビ取材者はただ使命を果たしているだけなのに、彼らの存在そのものが疎ましく憎らしく思えてくる現象も起きないではなかった。いつもはメディアの向こう側にいた人々を突然に自分たちが演じることになる心象は、あまりいいものではない。正直なところ、僕たちは困惑し続けていた。


たしかに、ハイシェンの影響は今もある。それは尋常ならざる爪痕を残している。そのことは隠すべくもないし想像に難くないだろう。


しかしながらそれと同時に申し上げたいのだけれど、これもまた大きな時代の・・・そして包括的な何かの一部なのだ。僕たちは抗いえない流れと滞留のなかで、生き延びるべくして生き延び、死すべくして死す。その繰り返しはあらゆる生と死を巻き込みながら、僕ともあなたとも誰かともつかない何者かの許しを得ながら、営々と粛々と続いていく。そのあとには何が残るのだろう。それはほかならず、生きることの意味そのものを問うことになってしまうのだけれど。


死は生の対局としてではなく、その一部として存在している。

おそらくは引用されつくして手あかどころか世界中あらゆる人の名前までもが彫り込まれてしまったであろうこの一文に、今こそ立ち返らなければならない。そして僕たちは、これを引用するだけでなく心身に迫るものとして受け止めなければならない。理解しているようで理解できていないこの一文の本髄こそが、過去を過去としてだけでなく今の空気の一部に内在させる唯一の道筋なのだ。


だからこそ僕たちは何度も何度も川を捜索したし、祈り励まし合った。僕たちがネアンデルタール人の頃から弔いの意志をもつようになったのも、この不確かであり確かでもある真実によるところが多いだろう。そうすることにより、僕たちはもしかすると悲しみを克服するための光明を見出すことができるかもしれない。


それでも椎葉は美しい。


それでも日々は続く。


・・・10月・・・


視察も増え、10月には郡司行敏副知事もお見えになった。


ツアー形式でぶん文Bunを堪能される皆さん。ランチは、椎葉懐石を開発中の地域おこし協力隊佐々木氏による。


都城市立図書館「mall mall」さんが椎葉の風特集を組んでくださった。


オンラインセミナーの回数も増えてきた。この写真は、まちライブラリー提唱者である磯井様と、日南の無人書店「ほん、と」さんを営んでいる杉田様と共同登壇している様子。


そしてやはり、大久保のヒノキを訪れると心安らぐのであった。


・・・11月・・・


高千穂の無人書店「ほん、と」さんへ行った。


そんなことをしていたら、高千穂町長も五ヶ瀬町長もご視察にみえた。ありがとうございます。


『おしえて!みやざき』の取材。放送の様子は↓の動画でご覧いただきたい!見てほしい!



今年も、紅葉が美しい椎葉であった。


本当に美しい。


椎葉の中学生たちと理想の本棚づくりを目指したり。


三島由紀夫没後50周年の憂国忌に何かしなくてはと慌てたり。そんな、11月。


・・・12月・・・


2020年のノーベル文学賞は、ルイーズ・グリュック氏にわたった。


椎葉の星が実に綺麗で、ようやく三脚を買いその幾らかを写せるようになった。


どこに星座があるのかわからないほど。


こんなオンラインイベントも。小林市さんにはもっと行ってみたい。


日向で猫に会った。すぐに去られた。


なかなか綺麗でしょう。宮崎県日向市の、願いが叶うクルスの海。なぜCrossではなくCruzにしたのか、なぜスペイン語なのか、いまだわからず・・・。


12月下旬、Katerieとぶん文Bunの来館者数が1万人に!


林遣都さんの誕生日には間に合わなかったけれど、見事写真集『THREE TALES』も加わり「林遣都さん推し棚」が強化された。


そう、今日はこの写真を挙げたいがためだけに書きはじめたのだった。

ようやく、僕の目的が、見えてきた。


僕は今日、この2枚の写真をアップロードしたいがために文章を書き始めたのだった。12月6日に起きたこの出来事は椎葉に来てから最もと言っていいほどに僕を興奮させしめ、この土地に住んでいるという意識を強めさせてくれた。それはどんなに立派な図書館を創っても芽生ええないし、どんなにたいそうなスピーチをしても生まれえないものだった。僕は、椎葉神楽を舞ったのだ。


僕が椎葉神楽のひとつを観たのは2019年の11月、嶽之枝御神社でのことだった。全国でも唯一「宿借」の番目が演ぜられるという嶽之枝尾神楽を最初に拝むことができたのは、非常なる僥倖であった。その後は地元の方から神楽に関する書籍をお勧めしていただいたり自ら調べたり、そういえば前住んでいた静岡の「オクシズ」にも神楽があったということで神楽の連綿たる営為と連なりを垣間見たり、僕はわずかばかりの繋がりを何とか重ね合わせ、神楽について学ぼうと努力を積み重ねた。


一説には修験道の影響が強いとされたり、巫女舞こそが主な神楽であるとされたり、宮中の神楽もあってそれはまた大きく異なり・・・など、神楽については研究途上と言ったところが正直な様子で、日本の営みのなかでもいつ始まったかわからないというのが真実のようで、またそれほどに永い時間続けられてきた伝統であるにも関わらず、その多くが謎に包まれているようだ。


そのなかでも、神楽を傍観者として眺めているなかでひとつの学説に同意するところがあった。それは「神楽では繰り返しが重要である」ということだ。


椎葉の神楽は地区ごとに伝えられている26種に分かれるのだけれど、その多くが夜神楽として奉納され、夕方から翌日の朝や昼間で舞いどおしという具合である。神楽を奉納する側はその半日も前から準備をしているのだし、そしてその半日も後まで直会をやっているのだというからほぼ丸二日間は寝ないで起きどおしということになる。そしてもちろん、最初の神事が滞りなく奉納された後は酒も入るわけである。


「繰り返し」が重要なのは、こうした眠気と酔いと高揚感の最中で延々と繰り返される連続的舞い(行為、その多くが「回転」)のなかでこそ、人は「神懸る」ことができるからだという。あくまで学説であり、その根拠などはないだろう。しかしながら僕が傍観者の一人として神楽を眺めたときでさえ、その感覚には頷かされるところがあった。神を迎えた場で人が舞い、延々と繰り返される舞いと酔いのなかでようやく到達できる境地としての神懸り。そんな感覚が場全体にやさしく広まりゆく感覚が、おぼろげながらにあったものだ。


それはD. H. Lawrenceが『チャタレイ夫人の恋人』において強調した「奇妙な腰の動き」にも似ていて、人間による同一の動きの繰り返しにはどこか異界への扉を開く力があるのかもしれない。ロザリヲを繰り続ける手の動き、お百度参り、延々と続く巡礼の旅、そして人生そのもの・・・。僕たちは繰り返し繰り返し繰り返すことでしか到達できない何かを、常に希求しているのかもしれない。


そして「神懸る」という状態なり営みなりが受け継がれている場所に自分が生きているという実感が、神楽にふれ始めたときから濃くなってきた。


アイルランドの伝説であったり、古く中世から語られる異界とのつながりの文脈で「妖精」の存在が語られる。それはまるで奇人変人のような振舞いをしたり子どもを連れ去ってしまったりする(取り替え子=Changeling)のだけれど、それもまた「神懸る」状態の一つをどうにか説明しようとする行為のひとつだと考えると、僕は妖精たちの住まう国に負けず劣らず神秘的で美しい村に住んでいるということになりはしないだろうか。ここにはすぐそばにある世界としての異界があり、僕たちはそこへ到達する術を知りつつある。長年憧れ続け慶應義塾文学部を卒業する際の卒論テーマにもした「異界」が、すぐ傍に迫っているのだ。


そんなロマネスクで憧憬深い神楽であるけれど、ある種「正しく」舞うことは重要である。僕が舞わせてもらった神楽は願成就という番目で約30分くらいの舞いだったのだけれど、正直に言って最初は「いったい何をどうやっているのか」わからなかった。そこにどんな法則があり、どんな順番で事が進んでいるのか皆目見当がつかなかったのだ。果たして舞いを覚えられるのかどうか、僕は欠片のような自信すらも抱くことができなかった。


しかしながら(意外にも(笑))優しいご指導のもとひとつひとつの動きや箇所の意味がわかってくると、舞い全体の意味もうっすらと色味を帯びてきた。ここでは本を読んで勉強していたことも役立って「二方目(にほうめ)!」と指導されたときの意味として、御神屋(みこうや)には五行思想が取り入れられているということが頭の中で参照される。そしてその意味がわかれば、なぜ最初に四方を横舞いで舞って歩くのかということが、まず四方を固めなければならないからだという解釈に落ち着いていく。僕はこんなふうに理論と実践をクロスさせながら、一歩一歩神楽を学んでいった。そりゃ、30歳になって初めて舞うんだもの。知識と体を総動員しなければならないはずだった。


ひとつ印象的な学びがあった。僕たちは願成就を舞うとき大きな御幣をもつのだけれど、それを「高くかかげなさい」という指導があった。そしてそこに添えられた言葉は「それが神さんなんやから」というものだった。


僕たちはすなわち、神様が御宿りになった採り物(神楽舞いの道具をおしなべてこう呼ぶ)としての御幣をもっているのだ。そして僕たちが持っていた大きな御幣は「大神幣」と呼ばれていて、それがゆえに願成就と「大神神楽」は同じ舞いなのだった。言葉と身体がリンクする感覚があり、思考のシャープネスが一段と増す瞬間だった。だからと言ってすぐ行動に移せるかというとそうではなく、僕の身体は固くて大神弊はカクカクと不器用なままだったけれど・・・。


*****


面白いことに、12月6日に自分が神楽を舞っているときの記憶はほとんどない。写真を見てようやく「なるほど一応ちゃんと舞っていたんだな」という気がする。それはいろんな方からかわるがわるお勧めいただいた酒のせいかもしれなかったけれど、まさか昼神楽(今年は感染症の影響に鑑み夜神楽の開催は見送られた)の短縮された時間でそんなふうに酔いくらうはずもない。あるいは僕が必死だっただけかもしれないし、その見方が大勢を占めるのだろう。


思えば、記憶とはそういうものなのかもしれない。2020年の出来事を振り返るこの記事に挙げた写真にしたって、僕は既にそのほとんどを忘れてしまっていた。写真を見てみると「あったなぁ、こんなこと」とか「これはいったい何のことだったかな」という具合である。


この写真のなかに映された世界は、本当に僕が過ごしたものなのかどうか。それすらも危ぶまれるほどに人間の記憶というものは曖昧だ。こうして見てみると、先に僕が「『既に経験してしまった』ことは、それ以上にも以下にもならないという確定性の美徳」と述べ立てたことの意義が揺らいでくる。記憶が不確かなものであるとしたら、それはとりもなおさず、過去や歴史そのものもまた不安定で不確定性のものであるということになる。


僕はそれでいいのだと思う。そして、だからこそ過去は美しいのだ。


僕はまた、手漕ぎボートのオールを握りしめながら進行方向たる未来に背を向けて大河の真ん中に浮かんでいる。確かだと思っていた過去の景色が、とあるときには灰色になり、とあるときには桃色の夜明けの様相を為す。太陽は東からも昇るし、あるときには西からも昇るのだ。


僕は自分の眼の不確かさを愛し、脳の「ゆるさ」を慈しむべきものとして受け容れる。「起きてしまったことはどうしようもない」と言うけれど、どうしようも「ある」のだ。僕たちは良くも悪くも過去が流転する世界で生きていて、それをどのように受け止めるかは僕たち次第だ。


そして過去が変わる瞬間は、今まさに今ここにある。それはすなわち「語り」である。


語りが未来をつくると同時に、語りが過去を彩る。語りの瞬間、そこには一つの独立した時空が生じ過去も未来もないまぜになる。そこには神も悪魔もなく、語り手の縮尺のみが善一の存在として機能する一元論的世界が完成される。僕たちは語ることによって、ともすれば神にだってなれるのだ。


12月31日に多くの人がこの一年を振り返り、こんなことがあったあんなことがあったと「語る」ことだろう。そこには多かれ少なかれ虚飾あるいは必要な修正が入ることかもしれない。そうした意味で大みそかは、4月1日を超えて、一年で最も多く嘘がつかれる日なのかもしれない。


生きるとはそういうものなのだ。本来不確かな人間の記憶に寄りすがり生きるうえで、そういう記憶の曖昧さほどに愛されるべきものはない。僕たちは語り、過去を変え、それをいかようにも扱うことができる。やりようによっては、今年起こったことすべてが薔薇色の夜明けのように見えるかもしれない。そして、それでいいのだと思う。


世界中の語りがいま、いくつもの空気的振動を生み連なり大海の波となる。その波は繰り返し繰り返し寄せて、ひいていく。僕たちはまた繰り返しの最中にいるのだ。そして、その繰り返しのどれもが心地よく、2020年という年の色を変えてしまうことを祈る。


2020年大晦日

小宮山剛

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