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  • 執筆者の写真小宮山剛

三島さんは綺麗なものをお書きになる

林遣都さんが出演された舞台『熱帯樹』を映像で観賞できる機会を得た。公演は2019年の2~3月のこと、世田谷パブリックシアターだったという。僕は同シアターのアクセスマップをブラウザの画面上で読み取りながら、三軒茶屋で過ごした幾つかの夜を脳裏に描きながらふとつぶやく。


「あの夜たちは」。


そしてそれ以上、言葉は続かない。「あの夜たちは」の後に続けるべき言葉が見つからないのだ。幾夜もの断片たちはつながりを欠いたまま今も、三角地帯のどこそこに墜落時の熱を帯びて赤く光っているのかもしれない。時として火花を散らしながら。


 

1959年秋の日の深夜、勇たちが落したあの夜の断片は今もまだ熱帯を帯びているだろうか。


『熱帯樹』は、小川絵梨子さんの演出になる舞台のかたちで観劇した。「三島由紀夫ならではの流麗なセリフ」と世田谷パブリックシアターの作品紹介で語られているがごとく、ふん、たしかに美しいセリフの数々にときどきどきりとさせられた。まったく、三島さんは綺麗なものをお書きになる。


断っておくが私は、フランスで起きた近親相姦交わる愛憎劇にギリシア悲劇のモチーフをみながら三島が1960年に発表した原作を読んではいない。椎葉村図書館「ぶん文Bun」には小宮山書店さんで購入した立派な『三島由紀夫全集』があるが、それも開いてはいない。哀しいことである。


決定版『三島由紀夫全集』

それでもなお、演劇『熱帯樹』については、しっかりと観劇し終えたいま何某かを語る権利はあるのだろう。たぶん、そう思うところである。


序盤の数十分で私が軽薄なオブラートのように抱いた作品への感興は、フラッパー的母親とエディプス・コンプレックスの桎梏に囚われた父子という単純明快な構造であった。飼いならされた玩具としての母親(律子)は母親であることを許されず、永遠の人形たる自らのフェイト(宿命)に茫然自失している。


まるで『グレート・ギャツビー』のゼルダ、いえディズィだった。満ち足りているように見え、芯の芯まで空白な女。それが律子であった。


しかしこの律子の愛の向きは、息子である勇に向いている。ここが、前述の「フラッパー的母親とエディプス・コンプレックスの桎梏に囚われた父子という単純明快な構造」を多少なりとも面白いものに変化させている。各人の愛の向きは、簡単に矢印で表すとこうなるだろう。


【恵三郎 → (自身の従属物としての)律子 → ← 勇 → ← 郁子】


①律子が母親ならざる存在である(と恵三郎から強いられている)こと、②勇の愛は母へだけでなく郁子へも(幾分かの変形は伴うにせよ)向けられていること。この2点が、『熱帯樹』における二つの三角関係を維持するための創作的装置である。


またすべての関係性のバランスをとり、納め、またそうすることに失敗しなお終焉を美化する存在が、同居人の信子である。彼女の執着する終わりの美学のおかげで(せいで)、終幕の美しさが引き立てられている。


 

人間関係の構図と共に美しいのが、熱帯樹をはじめとする草木を用いた(くどいほどに繰り返される)メタフォリカルな構造である。


「~してほしい」を繰り返す、とくに微笑を求めてやまない嘲笑されるべき父親は、自らのことを地面であるとたとえた。ほかならぬの土壌こそが悪しき培養液をしみこませ、一家の不穏の象徴として律子が夢想する熱帯樹を育んでしまっている。そしてその熱帯樹が実らせる不気味な真紅の花弁は、望まぬ華美に自らを包み込む律子の真っ赤な着物そのもののように、実在と非在の狭間で(息子と父親という非現実的な愛と現実的に強いられる愛との狭間で)揺れ動いているのだ。


また、物語の中盤と終盤で二種類の「非」が、ある種の安寧をもたらすことも面白い。


ひとつには中盤「俺を盲にしておいてくれ」「知らずにいたい」と強調する恵三郎が言うところの「見えざること」である。まるでRADWIMPSが歌う『狭心症』の出だしみたいだ。

この眼が二つだけでよかったなぁ
世界の悲しみがすべて見えてしまったら
僕は到底生きていけはしないから
うまいことできた世界だ いやになるほど

恵三郎は外面こそ取り繕っているが、律子という自らの言いなりが存在しなければきっと「眼が二つあることにも耐えられない」ような脆弱者だったのだろう。彼にとっては「見えざる」という非の状態こそが安寧なのだ。


もうひとつ終盤に訪れる「非」は、郁子に向けていつも語る物語について何かを弁解するかのように信子がくり返すセリフに表れている。

終わってしまったおはなし。終わってもう安心なおはなし。

信子にとっては死の状態、つまり生に非ざる不動の状態こそが安寧なのである。一度死したものがどうなるのか、二度と動なる状態に回帰することがないのかという一元/二元論の対決を巻き込む議論を避けるとすれば、信子の主張は一応の平静をつかみ取ることができるだろう。


 

家族の不穏の象徴たる熱帯樹と、それを育む大原因である土壌としての父親(恵三郎)。そしてその熱帯樹を夢想する本人であり、かつその木に咲く不気味な真紅の華そのものでもある母親(律子)。恵三郎は家庭内にめきめきと音をたてながら根を張り続ける熱帯樹の成育を、自らが盲目であり続けることでどうにか感知せずに生きてきた。


彼らが醸成する極彩色の世界を絶ち、終わりの安寧を呼び込むのが信子だった。全身を黒に包んだ彼女は、暗闇の静寂が待つ死の世界へと兄妹をやさしくいざなうパーセフォンのように、この物語を終焉へと導くストーリー・キャリア―となっている。


 

しかしながら大団円に向けて主役格の兄妹が選ぶのは、極彩色でも黒一色でもない「黒と白」の世界だった。極彩色の苦しさでもない、漆黒の静けさでもない。彼らは狭間の世界への旅路を選択したのだ。


熱帯樹が枯れてしまい赤も緑も消えた家を捨てて二人が向かうのは、白々と月が薫る漆黒の海が待つお台場だった。そこはD.H.Lawrenceが死と生の淵をみたような、「灰色の海岸線」だったのかもしれない。死出の旅を予感させる真っ暗闇の海には、まるでその旅路を照らすかのような月あかりが伸びていることだろう。あとはもう、死の船をつくるだけだ。

(「灰色の海岸線」や「死の船」についてはD.H.Lawrenceの『最後詩集』参照))


いや、死の「船」ではない。彼らを導くのはあの、小鳥の骸たちだろう。処女たる郁子の肌に包まれながら死んでいった小鳥たちの命は、処女の死(姦通と自死)を得て復活し、勇と郁子を白と黒の狭間へと運んでいくことだろう。白と黒の狭間、何色にもなりうる無限色の世界へと、ずっと飛びたち・・・。


 

最後のほう(D.H.Lawrenceが出ちゃうあたりから)は全く私の想像にすぎないのだが、あながち、物語の構造の掴み方や命のゆくえの見守り方においては間違っていないのだろうと思う。それもこれも、三島由紀夫全集から「熱帯樹」のパートを引っ張り出して読んでみるまでのことである。いつになることやら。


それにしても林遣都さんの演技を楽しく観るのであれば、きっと現地での観劇よりも映像版のほうがいいだろう。いいに決まっている。


なぜなら表情の機微(表情筋の使い分けに至るまで)こそが彼の一大特徴と思っている私にとって、そのお顔を近くで拝することができないということは大きな損失になってしまうからである。映画・ドラマでズームになったときの彼の表情こそ、ファン心理を大いにくすぐるものだろう。


これから林遣都さんが舞台に次々と挑戦を続けられるようなことがあれば、新たな「演劇人・林遣都」が生まれることかもしれない。きっと、どんな分野でもご活躍されることだろう。僕はまたこれからも『しゃぼん玉』の舞台である椎葉に住む者として彼を応援し続けたい。


 

・・・ちなみにこれまでの感想を、僕は『荒川アンダーザブリッジ』を全話観終えた後で語って(書いて)いる。なぜ『熱帯樹』の感想を書く前にそっちを観ちゃったんだろう。。。


とまぁそんなわけで、ここまで3,135字。「AUTB」と入力しようとしてはじめて「Arakawa Under The Bridge」の略字なんだと気づいたぜ。


それじゃあ、次回予告。いってみようか!



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