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  • 執筆者の写真小宮山剛

『痴人の愛』とパパ活と踏まれたい欲。

谷崎潤一郎の『痴人の愛』を新潮文庫版で読みました。以前読んだのはどの版だったか…。ブクログにレビューを書いたので、下記に転載します。


 

今の時代となっては取り立てて珍しくもないナオミの魔性は、1920年代米国のフラッパーであり現代日本の港区女子とでも言おうか。ただただ変わりないのは、慶應義塾の学生だろう。三田文学にもたびたび関与した谷崎潤一郎が描く慶應の学生というのは、ひとつ読んでみる価値があると思う。


それにしても新潮文庫に収められた細江光氏の注釈は、これだけでも一読の価値があるというものである。たとえばひとつ引用してみよう。


五〇 *パパさん 父母をパパ・ママと呼ぶことは、既に明治三十年代から一部で行われていたが、この頃はまだ一般的ではなく、広く流行するのはもっと後と考えられる。昭和九年になると、松田源治文部大臣が、「近頃パパ・ママという呼び方が流行っているが、おとうさん・おかあさんと呼ばないと、日本古来の孝道がすたる」と非難するまでになる

・・・ナオミが譲治のことを「パパさん」と呼ぶことへの注釈であるが、ナオミズムと呼ばれるまでのムーヴメントを引き起こしたこの女は、まさに現代日本におけるパパ活の先駆者と言えよう。「ナオミは今年二十三で私は三十六になります」という本作締めくくりの一文からわかるとおり、その年の差は13。まさにパパ活である。その有様を確信するのに最もいいのは、彼らが一時の別離から肉欲の赴くままに復縁する場面のやりとりだろう。


「これから何でも云うことを聴くか」
「うん、聴く」
「あたしが要るだけ、いくらでもお金を出すか」
「出す」
「あたしに好きなことをさせるか、一々干渉なんかしないか」
「しない」
「あたしのことを『ナオミ』なんて呼びつけにしないで、『ナオミさん』と呼ぶか」
「呼ぶ」
「きっとか」
「きっと」

(『痴人の愛』p.368.)


注釈と共に読み応えがあるのが、新潮文庫版に収められた解説である。それによると、谷崎潤一郎が『痴人の愛』において成功したのは、佐藤春夫との小田原事件など自身の愛のもつれを芸術化するにあたって、モチーフを現実に置き過ぎず的確な虚構化を行ったことに要因があるという。


なるほど、愛のもつれを当人の影が差しすぎるやり方で描かれたら、なんだかシラケてしまうのも無理はない。このあたりは、当時の太宰治にもよく言って聞かせなければならないことなのかもしれない。(かえって僕はそれが好きなのだけれど)


同版には谷崎潤一郎のその他作品に関する解説も含まれており、読むと改めて、現代日本の男の「愚」に残される数々の「谷崎観」に息を呑まされる。一時的な西洋人への憧憬と日本人への回帰(『痴人の愛』→『春琴抄』)、足へのフェティシズムと「踏まれたい欲」(『瘋癲老人日記』)、そしてパパ活・・・。


『痴人の愛』には、当時の貞操観念では許容しえなかった現代日本の当たり前が描かれている。だからこそ今読み解き、新潮文庫版にあるような丁寧な手ほどき(注釈・解説)と共に堪能することには大きな意味があるだろう。


今日のナオミを前にしては、この一作を読了していなければきっと太刀打ちできないだろうから。




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