嗚呼、つばめ殿
- 小宮山剛
- 2019年8月30日
- 読了時間: 5分
2019年6月25日、僕はいつも通り椎葉村のカテリエ(宮銀跡地)に出勤した。ここが僕の仕事場、村のみなさんのくつろぎ場、そして、未来の交流拠点施設の前哨戦の場・・・。
いつも通りの景色。いつも通りの梅雨曇り。僕は晴れた日の椎葉を恋しく思いながら、元々銀行の建物であったにふさわしく重々しい扉をあけようとドアノブを握った。
ひらりと、視界の脇を黒い影が横切る。雨か、と僕は思う。しかし雨にしては大きすぎる空からの来訪者は、重力に反し身をひるがえして、ひばりが天に昇るよりも速くたちのぼっていった。つばめだ。
彼、あるいは彼女につられて目をあげた僕の視界には、変わらずにいつも通りの梅雨曇りが広がっている。ただ違うのは、カテリエの入口天井付近に汚れというか、昨日まではなかった土のかたまりが付着していることである。僕はそこに、命が始まることを感じた。神々の一撃、不動の動者、生命のいとなみ、梅雨曇りの景色、飛翔、そしていつしか訪れる長いさよなら。
2019年の6月25日、僕はカテリエの入口天井につばめ殿の巣ができはじめているのをみつけた。
これから後に続く写真は、僕がつばめ殿たちの成長をできるだけ毎日、親鳥に疎まれながら、雛鳥に怪しまれながら、撮影しつづけた記録である。彼らが僕のことをどう思っていたかというと「邪魔なニンゲンだ」の一言につきるのかもしれない。彼らは僕に一言も挨拶の声をかけてはくれなかったし、僕に餌をくれることもなかった。
しかしながらこの記録は、どこか人間と他の生命体との交際を思わせるところがある。すくなくとも僕は、つばめ殿を愛していた。つばめ殿のほうも、もしかすると最後のほう(そう、物語には必ず「最後」がある)には、ちょっとくらい気をゆるしてもいいかという考えになってくれていたのかもしれない。
一家そろって巨人党の僕が「つばめ」ということばを愛情豊かに発したのは人生で初めてのことだった。つばめ殿、嗚呼、つばめ殿。僕は君を眺める毎日が、よかった。その他になんといえばいいだろう。つばめ殿、君たちは、よかった。











・・・この後、しばらくつばめ殿は現れなかった。僕があまりにもおしりを凝視したからかもしれない。ケーサツに通報しにいったのかもしれない「ニンゲンがわたしのおしりをじっと見つめてくるのです!あるまじきことです!2002年の『つばめ姫誘拐事件』の再来です!きっとあのニンゲンはあたまがおかしいのです!目がいってます!ふくだってあたまがおかしいみたいな桃色なんです!ほんとうです!」とかなんとか。
僕はこの期間、まるで長年連れ添ったガールフレンドが何の連絡もなしに消えてしまったみたいに、この世とあの世の「はざま」にはまり込んだまま消えるとも在るともない状態になってしまったみたいに、寂寥感という字をそのまま心にはめこんだかのような気分になっていた。つばめ殿はもういないのだ。それもたぶん、僕がピンクのシャツを着て凝視していたせいで。
・・・しかし、ガールフレンドは戻ってきた。いやそんなガールフレンドはいなかった。違う違う。違うんだ!
つばめ殿Jr.たちが、生まれていたんだ!





そして7月31日から8月2日のあいだ、僕は高知や栃木へ出張していた。つばめ殿に会えないことを寂しく思いつつも、その出張のあいだに得た大きな感動に、僕はあろうことか、つばめ殿のことを忘れかけていた。幼いころに泳いだ美しい川の名前を忘れてしまうように、世界のどこにあるのか知らない浜辺の記憶が心のどこかにあるように、僕はつばめ殿のことを忘れかけていた。
・・・僕は、8月3日、久しぶりにつばめ殿をみた。
でけぇ








・・・これが、僕とつばめ殿の最後だった。僕はこの後椎葉を離れ、福岡や静岡をめぐりいくつもの哀しいできごと、嬉しいできごとを体験した。森の中を駆け巡るように慌ただしい日々が過ぎ、いくつもの小川をこえ、たくさんの命を奪い、思い出が消え、生まれた。そのただなかにあって、僕はつばめ殿のことを、今度はひとたびも忘れることが無かった。ひとたびも、一秒たりとも。こうした表現はこの時間概念に縛られた現世でしか適用しえないものなのだろうが、まさにそうした感じで、僕はつばめ殿のことを思い返し続けていた。それはまるで人類の大記憶に刻まれた拍動のように、胎児がみる夢の鮮明さのように、僕の脳裏を捉え続けていた。
そして、つばめ殿は消えた。消えた、というのはあくまでニンゲンから見たものごとの表現であろう。つばめ殿は飛んだ。屋根まで、空まで、そしてはるか遠くの国へ。僕たちのもとで日が昇るとき、彼らの国では日が沈むのかもしれない。それにしても、どこへ飛んで行ったのだろう。Googleで「つばめ 巣立ち どこへ」と検索するつもりだった。つばめの本でも読んでみるつもりだった。でも、そのどれをも僕は実践していない。
来年、彼らが戻ってきたときに尋ねればいいのだ。
「ねぇ、君たちはどこへ行ってたんだい」と僕は尋ねる。一年後の、30歳になった僕はそのように尋ねる。
「お前は誰だ」とつばめ殿は言う。
僕はひとたびの間をおいて、ためいきを漏らす。まったく。
「僕は君たちを、一年前の巣立ちの前に見守っていたんだ。ずっとずっと見守っていた。毎日シャッターをきった。シャッターといってもスマートフォンのカメラなんだけれど、とにかく僕は君たちのことを見ていた。ずっと見ていた。愛していたんだ。情愛じゃないよ。なにかこう、もっと大きな・・・」そこで、つばめ殿が僕の言葉をさえぎる。そして彼女はただ、すべては解されたというように僕を見つめる。
「僕たちはこうなるべきだったんだろうか」と僕は、時間の空漠に耐えることができずに口を開く。僕はこの一年で、時間の伸び縮みというものにあまりにも敏感になってしまっていた。
つばめは飛んだ。屋根まで飛んだ。空まで飛んだ。そして一回りして、挨拶がわりのうんちを一発食らわせて、飛び去った。
まったく、と僕は言う。やれやれ、と言ってもいい。僕はカテリエではなく、新たな職場となっている椎葉の図書コーナーに帰る。つばめ殿は巣を新たにしたのだ。僕たちのいるべき場所がうつろいゆくように、彼らもまた、新たなる小世界を求め続けているのだ。
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