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  • 執筆者の写真小宮山剛

この日が永遠に続けば。:『天気の子』に想う

2019年の夏、多くの人が期待し、また巷のうわさでは裏切られているのが東京湾のすいs・・・いやその話はやめよう。そうではなく『天気の子』の上映であると思う。かくいう小宮山も全国での封切りとなるやいなや観るのが楽しみで楽しみで、椎葉村という映画館とは縁遠い場所からどこの県に遠征しようかと考えをめぐらせていた。


けっきょくのところ僕は『天気の子』を静岡のセノバで観ることになるのだけれどそこに至るまでには椎葉→福岡→静岡→山中湖→長野→小布施→静岡(映画!)→福岡→杖立→椎葉、という、とてつもなく長いストーリーを語らなくてはならない。それは往きて還りし物語『ホビット』の映画のように間延びしたものになるかもしれないし、巨人の上原みたいに小気味よいテンポと美しい構造で有無を言わせず読了させる『熱帯』みたいに心地よいものとなるかもしれない。どちらにせよ僕は、今とにかく『天気の子』の話がしたい!したいのよねぇ!させてよぉ!


・・・と、言うわけで。紙面の都合上(さぼり)椎葉~信州~静岡までの流れは小宮山剛のInstagramにてご覧ください。


とまぁこのブログ始まって以来最大の手抜きを披露したところで、さっそく『天気の子』にとりかかっていきたい。とまぁ語りはじめようとしたところで、新海誠さんの今回の作品が、前作『君の名は。』と比較されていることを思い出す。正直な僕はあまり他作品へのいきすぎたオマージュというかキャラの相互出演が好きではなくて『天気の子』でもそういうシーンがあったらやだなぁ、と思っていたら案の定うぇっほんごっほんごっくんぶふぅっ


・・・この『天気の子』感想に関してはできるだけネタバレなしでいきたいと願ってはいるのですが、私たち人間の願いとは裏切られるのが当然至極というところであって、私もまた当然のごとくネタバレをしますのでよろしくお願いしまぁぁぁぁぁぁぁす!


とにかく、僕が『天気の子』を観たときのことを語る前に、世間の事情ないしビジネス事業を鑑みるに、まずは『君の名は。』について語らなくてはならないように思う。ということで・・・


紙面の都合上(さぼり)『君の名は。』の感想についてはこちらの記事にてご覧ください。


やってやったぜ、1記事で2度のさぼりである。いやもう、僕はどんなことをやってでも今すぐに『天気の子』の話をしたいんだ。なんだ、そのわりには?えらく前置き、あるいは前置きにすらならないような腐れ文句が多いじゃないか?あぁ、そういう頃合いかと思ったよホールデン君。そんな言葉で僕の鼻っ柱を折ったつもりだとしたら、それは2-1で迎える9回裏に勝ちを確信してしまうくらいには甘いことだね。なに、たとえが平々凡々としている?よしきた、ほいきた、はじめてやろうじゃねぇか!ホールデン君、上等だ!慣れ親しんだスコッチをとびきり冷えたソーダで割って、枕元に置きながらこのブログを読むことだね。きっと読み終えた頃には、その上等なラフロイグ・ソーダがただの下等な砂糖水になっていることだろうよ。え、なに?話がわからん?えぇいm・・・


 

『キャッチャー・イン・ザ・ライ』をそのまま『天気の子』にかさねるな


僕も実は、白水社さんのTwitterなんかを観て『キャッチャー・イン・ザ・ライ(以下『キャッチャー』)』がどんな出方をするんだろうとわくわくしていた。僕はGoogle Alertsで「村上春樹」のニュースを毎日チェックしているから、村上春樹さんが訳した本ということで『天気の子』への登場シーンに言及したブログなんかもいくつかチェックすることができた。なかには、どこかの大学教授が『キャッチャー』のホールデンと重ねて『天気の子』を評して「セカイ系の典型」「『キャッチャー』と同じく『ここではないどこか』を探す物語」としていた。なんとも素晴らしいではないか。なんとも素晴らしい。うん、もしそれがほんとうだとしたら、その説は適切であり適説だろう。


しかし『天気の子』を観終わったいまの小宮山の見解は異なる。『天気の子』はっきり言って、そんな軟弱な話ではない。僕が以前『君の名は。』を観て感じたのは「救済としての円環の打破とこの世からの脱却という旅」であった。それはD. H. ロレンスの忘却の旅よりも力強く、くしくも彼が『死の船』で書き尽くしたような忘却の津波にまたほど近い、あの東日本大震災の哀しみを超克せんとするがごとき再生―それも、同じ繰り返しという哀しき桎梏を打破する進展的再生―の物語であった。


そして『天気の子』は、それをまた超越したのだった。再生でもない、ここではないどこかでもない・・・。では何か?どこか?そのことはまた終盤で語るとしよう。しかしながら今ここで言えるのは『天気の子』は「今ここの愛」を最大化しそれをはぐくむ覚悟を描いた、超ド級の現代版スペクタクル『ロミオとジュリエット』だった。そんなことを考えている。


・・・え?あぁ『キャッチャー』だったね。そうだった。ライ麦だ。僕はだいたいのところ、この作品の邦訳については野崎孝の定訳を好んでいる。そりゃ『華麗なるギャツビ―』に関しては村上春樹訳がぴか一だ。ぐうの音もでない。しかしながらなんといってもThe Catcher in the Ryeを『ライ麦畑でつかまえて』とするなんて、圧巻じゃないか。それこそぐぅどことかあぁともいぃとも言えない。そうじゃあないかい?


で、である。『キャッチャー』の主人公ホールデンはNYのいいとこの坊ちゃんで、あまりに放蕩(といっても港区住民みたいな遊び方はしないけれど、シャンパンぽんぽんとか)しすぎて金がなくなって困っちまうものの、それは自ら身体を酷使して得た金でもなんでもないし、いわばぼんぼんの話であるわけです。もちろん「ここではないどこか」を求める少年の仕草や行動に大きく心惹かれるし、僕も何回もこの小説を読み返したけれど、『天気の子』の子どもたちに比べるとその状況は・・・あまりにも良すぎる。一発や二発殴られたからなんだよホールデン、自分の脚で、立ってみろよ。そんな風に思ってしまう。


多くは語らないことにするが、『天気の子』の子どもたちはもう身寄りがなくて金もなくて、たった一人きりで(集団としての「一人」でもある)生きていかなくてはならないのだ。その意味では冒頭から『天気の子』は「都会の孤島」としての東京を描く映画であったし、その描き方はディケンズのロンドンにどこかに通ったところも感じられた。


かといって、もしあれが『オリヴァ・ツイスト』だったらと思うと・・・。たぶんTwitterにもあがらないだろうし、別に話題にもならなかったかもしれない。ふうん、ディケンズね。なるほど。以上、である。だいたいのところディケンズの作品というのはそういうところがある。もちろん時代が時代だからというところもあると思うが『荒涼館』なんてもうほんと勘弁してほしいくらいつまらなかった。いい子ぶったエスタ・サマスンのしゃべくりに付き合いながらちくま文庫4冊分もの長々しい描写に付き合わなくてはならないのである。もちろんそれがジャーンディス訴訟そのものを表しているというのならそれもそれまでなのだけれど、それにしてもあのしゃべくりサマスンには・・・最後に裏切るし・・・我慢がならない。


とはいえ『キャッチャー』が泣く泣く寝に入った漫画喫茶で食べるカップヌードル(まさしく貧相の象徴だ。金額がということではなく、時間的技術的余裕のなさとして)の重しに使われているというのは「僕の『キャッチャー』っぽくないよね」という考えを打ち消す部分も感じられる。『キャッチャー』が出てきたから「この『天気の子』は都会に暮らす子どもたちが『ここではないどこか』を探す物語DA☆」なんて決めつけるのはほんとうに早計だということだ。『アイシールド21』で綺麗な顔した余裕しゃくしゃくのWRが『キャッチャー』(いやたしかあれは野崎版?)を部員会議中に読んでいるという場面があったけれど、それとこれとは『キャッチャー』を取り上げる意味合いが異なっているというのが僕の考えだ。


僕の考えでは、主人公は『キャッチャー』を読んでいない。カップヌードルの重しに使われるくらいなのだから、すくなくともそこに自己を投身するかのような価値を感じてはいない。これがまず一つ。そしてもう一つには『キャッチャー』はあまりにずっとカップヌードルの重しとして使われ続けている。たぶんあの冒頭の東京に来たばかりの忙しい日々のなかで、主人公は『キャッチャー』みたいに「ここではないどこか」を探す余裕なんてなかったのではないだろうか。


そうした意味でも『天気の子』は『キャッチャー』をそのまま投影してしまうような軟弱な話ではなく、そのデバイスが置かれた環境や状況に鑑みるに、より力強くたくましいエネルギーの発露が用意された物語であると言える。次に移ろう。



 

「身体を売る」、そして生きる人へのエール


すこし書いたとおり、帆高も陽菜もほんとうに苦労する。帆高は東京という「生き生きとした死世界(拙表)」を徘徊せざるをえず、陽菜は新宿の地で身体を売らなければならない状況だ。吉田修一の小説によくこうした「身体を売る」女性が出てくるが、それはこの死世界TOKYOにおいて、男女の境なく押し寄せてくる「哀しさ」なのだろう。「哀しさ」。そのように表現しておきたい。まったく、だから東京湾の水だっておs・・・いやこの話はやめよう。東京五輪できるんですかねぇ。


ネタバレのようで恐縮だが、陽菜は風俗店で働くこともないし、帆高と一緒に新しい「ビジネス」を得ることで生計を立てられるようになる。帆高は帆高であやしい雑誌しごとをすることで、東京での仕事にありつくことができる。「身体を売らなくてよかった」のである。めでたしめでたしである。はい感想おしまい。


・・・とはならない。『天気の子』の主題ともいえる天気を左右する力はシャーマニズムの要素をたたえており、それは『君の名は。』で重要なデバイスとなる「口噛み酒」をつくる巫女の力にも似たところがある。巫女は自らの身体の一部を神前に捧ぐことでこの世とあの世との境を打破する力を授けた。そして『天気の子』のシャーマンたる陽菜は、もうもろネタバレなんだけれど、「人柱」として自らの身体すべてを賭した。


すなわち、である。すなわち『天気の子』では、子どもたちが「身体を売る」ことで生きていくという構造を、もちろん19世紀ヨーク州の炭鉱労働みたいに描くわけにもいかないし、まさか新海作品でトルコ風呂なんて出すわけにもいかないけれど、そうした身売りの構造ないし状況を見事に描き切っているのである。そして身体を売った少女は疲弊し、消え行く運命を避けることはできない。身体を売る少女としての陽菜を「支える」と称して能天気にお天気のスキル販売フォーマットをつくる帆高は、ポン引きの兄ちゃんそのものである。


僕は映画の途中まで、この哀しき唄としての『天気の子』をたくさんのカップルズたちが能天気に観にきただろうことに慟哭にも似た怖れを覚えた。いやいや俺っちはいいけどよ、これ観たあと君たちどうしちゃうの?え?「亜子ちゃんが身体を売らなくてよかった~」「もう、そんなことするわけないじゃん、あっくんがいるんだから!この安月給♡」みたいなやりとりでもするのだろうか?反吐が出るし、糞も出そうだ。あぁ、そりゃ映画講評なんかで不評だ不評だ言われますよね。天気を晴れにするという晴れやかで能天気で幸せな表現をとっていながら、その構造は風俗嬢そのものなんだもの。世間で疎まれ、日が当たらず、日陰を生きるものとしての風俗嬢。ねぇ新海さん、なんでこんなことしたのさ?僕は映画館のスクリーンに手に持っていたアイス・ティーを投げつけた。うそ、精確には投げつけようとした。納得いかないよ新海さん。これじゃ、あまりにタフすぎるよ。


しかし『天気の子』は、絶対で絶大でこれまでのアニメ、いや映画、ストーリー、物語史上最大の愛でこの僕の卑屈なメッセージをかき消してしまう。それはあまりに美しく、覚悟に満ちて、また救いに満ちた愛だった。僕は映画館にいた全員を抱きしめたいくらいの気持ちだった。キスしてハグして、一緒に輪になって踊りたいくらいだった。


これは個人の考えだと思うのだけれど、『天気の子』は超ド級のハッピー・エンドだったわけです。そこでは世界が失われ、個人の愛が救われた。いわば『アルマゲドン』くそくらえ、である。世界のために死んだブルース・ウィルスは映画のなかでこそ英雄だったが、その後のAJたちの人生を思うとやるせないばかりである。なぜ死んだの、なぜ生きて帰ってこなかったの・・・。なぜ、なぜ。こうした想像力がすこしでも働いたのならば、僕たちは戦争による英雄なんてこれっぽちも想像せずに済むんじゃないかと思う。愛のために死ぬ、という幸福はありえない。なぜなら、それでも残されたものは生きていかなければならないからだ。


『天気の子』の終焉では「身体を売る」少女としての陽菜はもちろん、ポン引き帆高も救われる。永遠の(その意味合いは最後で)愛に包まれて、二人の幸せで全宇宙の幸せを包み込んで、まるで時間をとめてしまったかのように生きていく。


とてもよかったのは、帆高をぼこぼこに殴り、陽菜を風俗(ほんとうは何の仕事かよくわからんけど)業界に引きずり込もうとしていた新宿の男が幸せそうに赤ちゃんを抱いている場面である。あれはよかった。みんな生きているし、笑うことができるし、幸せになるんだ。そういう強いメッセージが、あの場面からはあふれ出ていた。


僕は、水商売をしていた女の子の友人を思い出す。彼女は「夢があるの」と言って、一生懸命その商売に励んだ。客の機嫌をとり、わけのわからぬものを飲み、コスプレをさせられ、それを「楽しい」と評し、笑いながら、生きた。いま彼女は立派に母親として子どもを育て、とても優秀な旦那さんと共に暮らしている。僕は、ポン引きをしていた友達を思い出す。彼がどうなっているのか僕は知らないけれど『天気の子』の新宿の男みたいにすてきな場面が築かれていればいいと思う。そうなのだ。『天気の子』は掛け値なしに美しいハッピー・エンドによって、過去のどんな「哀しさ」をも打ち消してしまったのだ。いやそれは哀しさなんかじゃない。時間外ありまくりのなんちゃってクリエイターだろうが、掃きだめのような場所で働く飲食店のスタッフだろうが、一日に何人もの男のペニスをくわえなければならない男娼だろうが、やがて「晴れの日はくる」のである。


こんな風に言ってしまうと、なんだか脳内お花畑である。戦争もない、性産業の哀しみもない、愛の裏切りもない、みんなハッピー、ヒッピー。Imagine that...である。


しかしながらもちろん『天気の子』はそんな軟弱な構造のお花畑ハッピー映画ではない。なぜなら、もう完全なネタバレなんだけれど、彼らに「晴れの日はこない」からである。・・・これは支離滅裂だろうか?ごめんなさいと言うべきだろうか。いや言わない。僕は、ご飯をこぼしたときした謝らないと決めているんだ。「晴れの日は来ないけれどみんなが幸せになる」というこの矛盾にこそ、『天気の子』が僕史上最高に幸せな映画として書かれうる理由があるのだ。それは彼岸と此岸の狭間よりも美しく、生と死のバランスよりも崇高な、全現象の止揚を体現した美しい瞬間だった。



 

超ド級の現代版スペクタクル『ロミオとジュリエット』


雨である。物語の中盤や大団円の直前に大雨が降るということは、クラシカルな手法としての「再生の予感」である。『おおかみこどもの雨と雪』もそうだ。もう挙げたらきりがない。


だがしかし『天気の子』は、のっけからずっと雨である。毎日毎日雨。雨に次ぐ雨。ちなみにこのホームページのタイトルは「雨読につぐ雨読」なのでよろしくお願いしたい。こうなってくるとそのスタイルは「再生の予感」を越え出て「黙示録的予告」ともいえるものになってくる。塚本晋也の『六月の蛇』そして・・・出すのは嫌だが『荒涼館』。そこには冒頭から破滅と死の予告が宣誓されているようなもので、クラシカルな導線としての再生が予告されている。


こうした導線を辿っていくと、とめどない不幸の限りが尽くされた映画の最後に再生の物語が語られ、また新たな世界へと躍動していく・・・。という筋書きが思い浮かべられる。先に述べたとおり『天気の子』は、身体を売るものたちの悲哀が昇華してしまうほどの物語である。ぴったりではないか。


しかしながら『天気の子』は、こうしたクラシカルな展開をにおわせつつ、さらにクラシカルな大団円ーそれも、悲劇としてのーを重ねることで、新たな境地へと至っている。そう、僕が冒頭に出した不朽の名作、『ロミオとジュリエット』である。


『ロミオとジュリエット』は、ある意味では、相手が死んでしまったと勘違いしたがゆえの死という「喜劇」の要素も含む悲劇である。自殺したふりをする嫁みたいなのが流行ってましたけれど、それを見て旦那が仰天して「僕もしぬぞぉ」なんて言い出したらたまらんですよね。とまぁそれはどうでもよくてですね・・・僕が着目したいのは、ロミオとジュリエットが二人して死を選ぶことで、家系のしがらみや「時」といったあらゆる桎梏を超克した「二人だけの平和」を手に入れたということである。二人は、まるで虫の標本が死ゆえに永遠の美しさを保つかのように、死してこそ二人だけの幸福を手に入れたのであった。永劫に。


もちろん『ロミオとジュリエット』では、それは死という境を越え出た向こう側でしか実現しないことだった。その代償の大きさははかり知れず、果たして「ほんとうに」死後の二人が永劫に結ばれるかなんてわかったものではないのだ。これはイケナイ。


しかし新海誠さんは『天気の子』で、『ロミオとジュリエット』の永劫の愛を「生きたままにして実現してしまった」。死後でしかえられないはずの二人の絶対愛と、時の超克を、現世というステージで叶えてしまったのだ。


どういうことか。僕は『天気の子』で最後に選ばれた「道」は、全世界に優先される愛が勝利した姿だと思うわけです(『アルマゲドン』くそくらえ)。そしてその愛は、時をとめてしまった(『ロミオとジュリエット』現世での実現)。もう少し言えば「時をとめてしまった」とはつまり、死と再生の止揚が実現(天気の「晴れ」と「嵐」が繰り返すことをやめた、留まった状態)した世界としての大団円という、『天気の子』最大の幸福世界の表出であったということである。


そこは晴れもない、嵐もない、永遠に雨が降る世界。しかしながら人々は幸福で、かつてのように身体を売ることもなく、暮らしている。それはまさに時のない、死の訪れようのない、安寧の状態である。ロミオたちが死という不確かな手段でしか望みえなかったそれを、帆高と陽菜はこの世に生きながらにして実現してしまったのである。念のため言い添えておくと「じゃあ『天気の子』では時が止まってしまったの?」ということではない。これはあくまで構造としての美しさの問題であって、実際にはあの世界の時は流れていくことだろう。しかし神とつながった存在である陽菜が動かないかぎり、雨は降り続け人々は愛に包まれ続ける。すべてを投げ出した愛の成就は、すべての人を救ったのだ。ほんまにアルマゲドンくそくらえやで!


・・・そうした意味で、やはり『天気の子』は「ここではないどこか」を探すような、軟弱な物語ではない。それは「今ここで」二人だけの愛を実現するという覚悟が、すべての人の愛を救うという物語である。さらにその物語は、都会で迷うすべてのストレイたちに捧げられた唄としての美しい構造を保ちながら、私たち迷えるものの胸に響くのだ。


もしかしたら「なんだか共感できない」という方が多かったのかもしれない、とも思う。それはそれで、僕は幸せなことかもしれないと思う。なぜならこの『天気の子』の愛の深さに共感できないということは「絶対の孤独」「涙もでない貧しさ」「救いようのない前途」のどれをも経験したことがないということにほとんど等しいからだ。そんなことを経験しなくたって、べつにいいと思う。でも僕は、新宿の街のいたるところに、池袋の片隅に、渋谷のビルの路地裏に『天気の子』を観たおかげでその生き方に自信をもてたりだとか、生きるということの実体にすこしばかりでもふれられたりとか、そんな人が数多いるような気がしている。そしてもちろん、椎葉村という恵まれた場所に住みながらにして、僕もその一人であるのです。

 

いくぶん興奮気味に書いたけれど、僕は総じて『天気の子』に絶叫拍手喝采なわけで、もうその他どんな映画とも比較しえないくらい喜んでいるというわけである。嬉しくてしようがない。


長い文章が嫌いだというあなたのために最後にまとめておくと・・・


・『キャッチャー』の意味は、カップヌードルと合わせて考えてはじめてわかる。

・『天気の子』は軟弱な「ここではないどこか」探しではない

・「身体を売る」ことの解釈が、この映画の本当の救いの意味を明らかにする

・「時を超える」ことを構造的に現世で成立させたのがすごい

・むっちゃすごい。ばりすごい。


と、なります。

これにて私の夏休みの宿題は、終了!!

(最後、申し訳程度に夏の写真を貼っておきますw)


劇場は新静岡セノバにて!

ちょっとボロボロな私のキャッチャー

夏休みは山中湖情報創造館さんへ

県立長野図書館さんへ

ほいでまちとしょテラソさんへ

信州ソースカツどん!

テキーラダイナーさんの「ファッツ・クラブ」

焼津おさかなセンターでまぐろ!

旅の〆は杖立温泉にて

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